13 / 24
第十三話
ルシアは目を瞬いた。
彼の言わんとしていることはわかる。
だが、ルシアは勝手に心配がないと思い込んでいた。
卒業してもこれまでと同じように、レオンとの関係は続いていく。だって、互いに恋人も好いた相手もいない。レオンだって、この関係をやめようとは言ってこない。
シリルは押し黙ったルシアを見て、大方のことを把握したようだ。
「これから生活も別々になり、それぞれが直面する問題も全く別のものになる。大抵のオメガはそこで、苦しむ。発情期に目当てのアルファが捕まらない可能性が、極端に増えるからね」
シリルの表情は出会った時とは違い、意地悪なものではなかった。
それどころか、まるでルシアの未来をしっかりと見てきて、善意から考えを改めさせようとしているかのようだ。
「俺のような爛れた大人はね、ルシア。何人ものオメガと関係を結ぶことは珍しくない。つがいがいないということは、そういうことだ。これはオメガも全く、同じなんだ。つがいでもないアルファにすべてを任せ頼りきることはできないから、数人のアルファに協力を頼んだりもするんだよ」
本望なら、別にいいけど、死にたくなくて仕方なく頼む子もいる。
相手のアルファが今のレオン君のように甘やかしてくれるならいいけれど、そうではないなら自分でどうにかしなきゃならない。
シリルは容赦なく続ける。
「将来有望でつがいのいないアルファは職場で重宝されることも多い。黒魔道士なら遠征も珍しくないし、白魔道士なら帰る暇もなく治療などにこき使われる。そうそう簡単に休暇など取れなくなるよ。それに、万が一病や怪我で動けなかったら? きみは一人で乗り越えなければならない」
シリルの言っていることはもっともだ。
ルシアの発情期は不安定だが、今までは毎日顔を合わせるレオンが匂いでその訪れを事前に感知していた。だからルシアは外で不用意に発情する失態を避けることができた。
当然それは卒業すれば、不可能になる。
ルシアはそのことを理解していながら、いざとなるとこのままどうにでもなるだろうと思っていた。
それは先に言ったように、レオンが拒まないからだ。
連絡手段がないわけではない。きっとレオンは今まで通り自分のために、来てくれる。
そう漠然と未来を思い描いていた。
だが、そんなものはただの傲慢な考えだと先ほどようやく気付いた。
ユーゴの姿を見てこんなにもショックを受けているのは、考えたくない未来が迫っているからだ。
レオンは、いつか他の誰かとつがう。
自分ではなく、他の誰かと。
「……互いに好いた相手ができたら、関係は終わる予定だった」
「うん」
「だから僕はいつも、レオンに訊いてきた」
──好いた相手はできたか?
「あいつは常に、いない、と一言返すだけだ」
それを聞いたシリルは、納得したように自身の顎を撫でた。
六日前の発情期の終わりにも、ルシアはいつものように確認した。レオンは少しうんざりしたような表情で「いないよ」と返した。
ルシアはその度に落胆する思いを無視してきた。
好いた相手がいないのなら、当然、自分もそこに含まれていない。
「きみは、分かっていてそのままでいいと望んでいるのか」
「……離れるくらいなら」
この二年、ルシアとて努力した。
恋を知らない男に無理を言ってパートナーになって貰ったから、できるだけ早く解放してやらなくてはと時折我に返っては戒めた。
自身の学内の評判が悪かったのもあったから、揶揄われても無闇に反論せず、なるべく相手にしないようにした。
不遜な態度が気に食わないと言われていたから、目立つことは避けて余計な事を言わないようにした。
その甲斐あってか一時期よりは人付き合いも増えたし、アルファからも声をかけられるようになった。
だが、ルシアはどうしても他のアルファを受け入れる気にはならなかった。
なぜなら、彼等が気に入っているルシアは、ルシアが我慢している結果だ。
以前のルシアではなく、余計な一言も言わず、時折微笑んで心ない言葉の反論もしない、偶像だからだ。
そんな上辺だけの関係など、欲しくない。
分かっている。
それは既にありのままの自分を受け入れてくれた、レオンの存在を知っていたからに違いない。
ルシアはこれが恋と呼ぶものなのか、それまで確信を持てずにいた。
楽な関係に逃げているだけだと、そう言われてもおかしくはない。
だが、それも今日で終わりだとルシアは理解している。
あの人間嫌いのレオンが、ユーゴと休日を共にしていた。それがただの友人だとしても、どうでもいい事だ。
自分は確かにユーゴとつがうレオンを想像して、傷ついたのだから。
そして自分も、もうずっと前から他の誰かに抱かれたくなんて、なかった。
「きみは、物事をはっきり言う子だと思っていたけど違ったのかな。少なくともあの頃のきみは、溌剌として怖い物なんてなかったように思えた」
「僕は、変わっていない」
憮然と言ったルシアに、シリルが笑う。
十八歳だったルシアは、恋人も婚約者もおらず焦っていた。
発情期の症状が重く出る体質だと判明してからは、特に孤独に対して怯えた。
オメガが基本的につがいを作るのを優先されるのは、こうなる未来を避ける為だ。
身体だけの関係でもいいと、レオンに縋った。
もう苦しみたくない。一人でいたくない。
誰かに助けてほしい、と。
恋人でもないレオンに頼んだのは、傲慢だった。爛れていると言われてもおかしくない。
だが、レオンは何も言わなかった。
結果としてルシアも、レオンと関係したことを一度も後悔していない。
「僕は──」
だからこそ、言えない。
言えるはずもなかった。
レオンに好かれていないのに、恋人になってくれなど、都合が良すぎる。
これ以上彼に何を望む? 彼はもう充分、ルシアに尽くしてくれている。
「抑制剤に頼る手もある」
「……ああ」
労るようなシリルの言葉に頷く。
フェロモンを完全に消せぬ抑制剤など、その効果はたかが知れている。
だが、少なくとも飲めば、死ぬことはない。
それきり、二人の間には沈黙が降りた。シリルの茶を飲み干す音が聞こえ、観察するような視線を感じる。
ルシアは小さく息を吐いた。
ここで悩んでも仕方ないし、何もしないうちから勝手に落ち込むのは時間の無駄だ。
顔を上げると、待ち構えていたのかシリルの灰の瞳と目が合った。
「帰る」
「うん」
頷いて、シリルが少し考える素振りを見せた。そうして部屋の隅に置かれていたチェストの引き出しを開ける。
乳白色の平べったい石を取り出し、ルシアに差し出した。
「これは」
「繋道石 。少し前の物だから、簡易的なものだけど」
ルシアは受け取るか戸惑い、手を差し出す事は控えた。
元は魔法石だが、繋道石と呼ばれているそれは、連絡手段として良く使われる魔道具だ。
いくつかの定型文を呪文構築し閉じ込めていて、遠く離れた者からもメッセージのやりとりができる。
魔力のある者同士なら、至極簡単な連絡手段として使用されているもの。
受け取るのを躊躇うルシアを見て、彼は無造作に紙袋へ突っ込んだ。
そのまま紙袋ごと、ルシアへと手渡す。
「なぜ」
「こう見えて、俺は偉大な黒魔道士だからね。万が一きみが危機的状況になったら、すぐに飛んでこれる。──もし、困った状況になったらこれを使って。いつでも駆けつけるよ」
「こんな高価な物……」
一般的な繋道石は互いに魔力がなければ発動しない。
定型文を事前に登録し、唱えれば相手の持つ石にメッセージが浮かび上がる。
近年はこれを元に派生した類似商品も出ているが、それでもまだ石自体、安くはないものだ。
ルシアは首を横に振ったが、シリルは微笑んだ。
「心配しないで。少し前に仕事で大量に使った物なんだ。今は問題も解決して、これは余ってるものだから。──今日、付き合ってくれたお礼に、渡しておくよ。もし、もしだ。きみが一人で苦しい思いをする時が来たら、それを使うといい。必ず、助けに行く」
すっと真剣な表情で言われ、息を呑む。
初めて見るシリルの表情は、今までどことなく漂っていた軽薄さを打ち消し、怖いくらいの美貌が更に際立った。
しかし次にゆるく口角を上げたシリルは、「送るよ」と少し前に放った言葉を紡ぐ。
来た時と同じようにルシアの同意も得ず腰を引き寄せられ、次には家の門前に立っていた。
「……なぜ、僕の家を知っている」
転移魔法は、基本的に知らぬ場には転移できない制約がある。
初級なんて魔方陣と魔方陣を行き来するものだ。いくら天才でも、見知らぬ場にも行けるなんておかしい。
ルシアは困惑してシリルを仰ぎ見るが、彼はなんでもないような表情をした。
「なぜって、俺は偉大な黒魔道士だから」
「一体どうやる。初級だと目的地に魔方陣も書かなければならないのに、なぜそんなことが。レオンがあれだけ苦労しているのに──」
そこでルシアは言葉を止めた。正面にはにこりと笑うシリルがいる。
気まずい思いで視線を逸らし、ルシアは渋々口を開いた。
「送ってくれて、その、助かった。それに、お茶もごちそうさまでした」
「うん。それじゃあね、ルシア。──きみの幸運を祈ってる」
シリルはそう言って、いつだかと同じように身を翻すと姿を消した。
ルシアはしばらくそこで訳もなく佇んでいたが、気を取り直し紙袋をしっかりと握り自宅へと戻った。
一週間後、彼の誕生日にこれを渡し、そして自分の気持ちを──伝えよう。
このままでいることは、もう無理だ。
結論として、ルシアはふられた。
ルシアの初恋と二人の関係は、卒業を間近にしてすべて消えたのだった。
ともだちにシェアしよう!