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第十六話◇レオン

「……ルシアも怪我、してる」 「ああ。ちょうどいい、僕に再生呪文をかけてみろ」  レオンは目を瞬いて、慌てて首を横に振る。  人体の治療についての勉強はまださわりだけしかしていない。それも教科書の文字を読んだだけで、レオンは欠片も覚えていなかった。 「で、できないよ」 「期待なんかしていない。だがどうせいつか実践するんだ。ちょうどいいしやってみろ」 「無理言わないで」  ルシアの手の甲には数ヶ所小さな穴のような傷があり、血が滲んでいた。しかし当の本人は平然とした顔をしている。  それだけではなく、レオンに治療しろと言い、ずいずい手を差し出してくる。  レオンは抑えようとその手を仕方なく取ったが、ほら、と催促されても首を横に振ることしかできない。  こんなに綺麗な手だ。下手な呪文で中途半端な再生をして、傷跡でも残ったらどうする。 「手の骨はこの下の方に八個ある。ここは指の数だけ。でもこの怪我は骨まで届いていない」 「で、できないよ、ルシア」 「落ち着け。よく見ろ、えぐれているように見えるがすぐに離してくれたからそこまで深くない。血も止まっているだろ。だから基本の再生呪文で充分だ」  ルシアの言う通り血は止まっていた。  深そうに見えた傷もよく見れば皮膚がその部分を庇うように覆っている。  確かにこれなら、先ほどウサギの耳にルシアがかけていた魔法で済みそうだ。  レオンが呪文を詠唱するまで梃子でも動かないつもりか、ルシアに何度か助けを求める目で彼を見ても、空色の瞳は揺れもしない。 「傷が残ったらどうするの」 「やってもないのに、できないと決めつけるなよ」  根負けする形で、仕方なくルシアの傷口を確認する。  先ほどルシアがやっていた手順は……。  まずは鎮静呪文。  ルシアは既に微動だにしていないから無し。次に真水で洗浄し、傷口の確認。小さな穴だ。ウサギの前歯がほんの少し、皮膚を破ったのか。  止血呪文は必要ない。それならば、次は皮膚の再生。細胞の成長を促す、あれだ──。  呪文は不思議とレオンの口からすんなり出た。  今までも何度も暗記させられていたが、いざ生き物を目にするとすべての手順が吹っ飛んで治療魔法どころではなくなるレオンにとって、それは初めて再生呪文を紡いだ瞬間だった。 「──ほら、できただろ」  顔を上げると、ルシアが目尻を下げ嬉しそうな顔をした。  自分のことのように喜んでいるその表情に、レオンも自然と笑みがこぼれる。 「──お見事でした、シュヴァリエ」  咄嗟にレオンはルシアから離れた。  振り返ると白魔法学の教師が立っていて、笑みを浮かべながらゆっくりと歩み寄ってくる。  その様子から、教師はかなり前からそこにいたように感じ、思わずルシアを確認した。  彼は悪戯が成功したような顔をして、小さく肩を竦める。 「一度も再生呪文が成功していない貴方をどうすべきか私としても悩んでいましたが、対人相手にその魔法を成功させる実力があると知れれば、心配はなくなりました」 「え」 「ウサギの方はどうでしたか。こちらのウサギは耳の裂傷、腹部の打撲、でしたね。確認しましょう」  白魔法学の実習だと教師はこうして生徒達の成果を確認して見回っているので、彼女がそのうちここへ足を運ぶことは分かっていた。  しかしそのタイミングまでルシアが見計らっていたのだとしたら、なんだかくすぐったい気持ちになる。  レオンは固まっていたウサギをむんずと掴み、素早く確認する教師の後ろ姿に若干引きながら、彼女がルシアに「皮下組織や筋肉の損傷に冷却魔法を使用したようですね。コレットですか」と話しかけるのをただ見ていた。  ルシアが頷くと、教師も頷き、次に耳の裂傷を確認する。 「傷口は綺麗に塞がっていますね。時間が経っていたので治癒は難しかったでしょう。これはどちらが?」 「レオンです」 「──なるほど。再生呪文をちゃんと習得したようですね。頑張りましたね、シュヴァリエ」  そう言って白魔法学の教師が微笑む。  レオンは微かな罪悪感を覚えながら、頷いた。  元々白魔法学が大の苦手なレオンを、彼女は何度も指導を変えながら対応してきた教師だ。再三彼女からの追試を受けながらもたいした成果も上げられずにいただけあり、今日の再生呪文の成功は教師としても喜ばしいことだったのだろう。  ウサギの治療はすべてルシアがやったが、レオンに手柄を譲ったルシアの気持ちを無下にするつもりはない。 「これで白魔法学の成績も少しは良くなっただろ」 「……ルシア、ありがとう」  去って行く教師の後ろ姿を眺めていたルシアが、してやったとばかりの態度で頷く。  レオンは心から感謝の言葉を口にした。 だがそんなレオンの言葉など耳に入っていない様子のルシアは、近くにいたアルファ女性がウサギの抵抗に苛立ちその尻を叩いているのを見るなり、「顔もブスなら性格もブスなのか? 救いようがないな」と言い放ち彼女を青ざめさせていた。  レオンはなんとも言えぬ気分に陥った。  一連の出来事は、ルシアにとって取るに足らない日々の一部にすぎないのだとレオンは分かっていた。  彼はしたいように行動しているだけで、それは彼なりの信念や正義に基づいていて、そしてそのすべてが、悪意のないものだ。  何事にも正々堂々としていて、間違っていると判断したものに関しては相手がどんな立場であろうとも口に出してしまう。  正しさにこだわる信念は時に反感を持たれ厄介者扱いされるが、それがルシアだと思えば憎めない。  だが、他の人間は違うようだ。  ルシアがディライト・マーレイと何やら揉めたと聞いたのは、それからさほど経たないうちのことだ。  元々生徒達に良く思われていなかったルシアは、ディライトに対する一連の発言を知られるとあまりに無神経すぎるとほとんどの生徒がルシアを糾弾した。  件の場にいた者達も、過去ルシアに辛辣な態度を取られた者達も誇張を含めルシアの悪口を言いふらすようになり、オメガもアルファも年齢の垣根も越え、最早理由など後付けで今では校内一の嫌われ者となった。  心ない言葉をかけて笑う者、影でこそこそ悪口を言う者、それまで言葉を交わしていた者でさえ、目も合わせない。  レオンはルシアが更に孤立していく様をただ見ていた。  元々レオンも似たような状況だ。陰口こそないものの、同じアルファからはよく思われていないし、小突かれて馬鹿にされるのも常だ。  だが、レオンがそれを気にしていないようにルシアもさして気にしていないように見えた。  馬鹿な人間には好きに言わせておけばいいし、日常に支障を来すこともないのなら変わる必要もない。  案の定ルシアは売られた喧嘩は必ず買って言い返していたし、発言や態度を控える様子もなかった。  レオンは安心していた。  ルシアが変わらないでいてくれたことが、なぜか嬉しかった。  ルシアの良いところは自分だけ知っていれば十分だと、レオンは本心からそう思っていた。  愚かなことに、その理由を突き詰めるほど賢くはなかったし、そういった意味ではレオンはあまりにも無知であった。  だから、レオンは自分がルシアに恋をしているという自覚はなかった。  レオンの唯一はルシアだったが、それはキスをしたり抱き合ったりなどという欲を伴わない、純粋な友人としての唯一にすぎないと、そう思っていたのだ。 ◇  発情期を迎える度に、ルシアは次第に暗い表情をするようになった。  彼はひどく自分の匂いに敏感になり、「僕、匂うか?」とレオンに度々聞く。  アルファが他の種族より鼻が利くことは、誰もが知っている事実ではある。  だがルシアがそれをレオンに頼るとは意外だ。つまり彼は、オメガ特有の匂いを気にしているのだろう。  聞かれる度にレオンはしないと答えていたが、ある日街へ繰り出した時、すれ違う人々が纏う華やかな香りに気付き、誘われるように雑貨屋へ入った。  店内は色々な香りが充満し頭痛がしたほどだが、客を見ると皆嬉しそうに小瓶を手に取っては香りを嗅いでいる。  恐らく、ここにいるのは殆どがベータなのだろう。  香水、というものは贈り物に最適だと店員が話しかけてきた。レオンは何も考えず、それならばルシアにひとつ贈ろうと勧められるままに香水を購入した。  以前彼が誕生日が過ぎたと言い、面白半分にプレゼントをねだられていたのもある。  校内のオメガ達がこういったものをつけていないことは知っているが、頻繁に匂いを気にしているルシアにこれを贈れば、少しは気が紛れるかもしれない。  ルシア特有の匂いがしなくなるのは残念だが、もうそういったことをあまり気にしてほしくはなかった。  予想通り、香水の贈り物をルシアは喜んだ。  それから毎日花の香りを身につけるルシアに、レオンはようやく安堵した。  ルシアが悩んでいる様子は見たくない。それに、幸運なことに心配だったルシア特有の匂いも、ちゃんと嗅ぎ分けられる。  だが、悩みを解決したと思ったのに、それからもルシアの表情は晴れない事が増えた。  思い詰めたような顔をして、恋人同士の後ろ姿を見ているルシア。ディライト達に嗤われ、負けずと言い返しても最後には俯き加減で足早に立ち去るルシア。  それは以前までのルシアとは明らかに違い、レオンは彼の変化の理由がわからず、ひたすら困惑した。  しかしその理由は、ある日突然ルシアがレオンに向かって放った言葉で理解することになる。 「レオン! 僕の恋人になれ!」  こいびと。  耳慣れぬ言葉に即答で断った。  が、ルシアはめげない。  ──許婚がいないなら、何を躊躇うことがある。  ──僕は一人きりで発情期を超えなければならない。いいか、その度に死ぬ思いをしているんだ。  ──年頃の男同士、気楽に考えてくれればいいんだ。  会う度にそんな事を言われて辟易としていたレオンだったが、ルシアとそういった関係になるという生々しい想像で、すぐに頭がいっぱいになった。  レオンに許婚はいない。  シュヴァリエ家は貴族だが、結婚は個々の判断に任せる方針を貫いている。これまで特に支障はなかったようだが、六つ上の兄はまだ結婚しておらず、レオンも一度もそういった事を意識しなかった。  アルファとオメガの本来の結びつきも、どこか他人事に感じ、当事者になる事など考えもしていない。だからこそルシアの懇願には驚き、動揺した。  要約すれば彼は、身体の関係をレオンと結びたいと言っているのだ。  混乱した。  発情期のパートナーということは、服を脱いで裸になり、相手の……。  とてもではないが、恐ろしくてそんな事態になることは避けたい。  他人に、ましてやあの綺麗な幼馴染みに、自分の裸を晒すなんて恥ずかしすぎて無理だ。  それに、そんなことを簡単に言うルシアも気に食わない。  いくらオメガだとはいえ、そういった事は至極繊細なものであんな風に大声で一方的に宣言するものではないはずだ。  大体、今の今まで自分をアルファだと認識していなかった癖に、発情期で死にそうな思いをしたらちょうどいいのがここにいると言わんばかりの態度も頷けない。  ルシアと身体の関係だけでもいいと言う人間は他にもいる。  腹立たしいアルファ達だが、誘えばそれくらい乗るはずだ。  レオンは爪を噛んだ。  つまり断ったら、ルシアは他のアルファに身を預ける。  手近の自分に声をかけた事実は面白くないが、かと言って他の誰かをパートナーにするルシアなど見たくない。  なぜ、こんな気持ちになるのかレオンは分からなかった。  毎日毎日ルシアの事を考え、そういった状況を想像しては堪らない気持ちになる。そんな感情が不快で気持ち悪いのに、このままでいいはずがないという焦りに襲われる。  レオンはガシガシと頭を掻いた。  ──駄目だ。全然集中できない。 「レオン、今日はもう帰りなさい」  ベランジェの穏やかな声に、レオンは顔を上げた。  研究室で一人、頭を抱える生徒の異変に、彼は最初から気付いていたようだ。  目が合うと諭すように頷かれ、レオンは力なく立ち上がる。 「すみません、先生」 「構わないさ。学校は学業だけを学ぶ場ではないからね」  レオンは眉根を寄せた。  意味深とも取れる言葉に、発情期を共にしろと言ったルシアの姿がまた浮かぶ。  それを打ち消すように慌ててベランジェに会釈をすると、研究室を後にした。  知らない世界に足を踏み入れる勇気をレオン今まで避けてきた。  己を知って貰うための会話、他人と協力して成し遂げる勝利、慈しみ合う心。  レオンにとってそれらは後回しのもので、中心ではない。  無駄に交友関係を広げ、自分の時間が減るのは嫌だった。時折ルシアの姿を見て、変わらず話しかけてくれればそれで満足だった。  興味のある魔術書を広げ、魔道具を考え、作る。実現できぬともその作業は一番レオンが好きな時間だ。  しかし今はその時間も、ルシアに変わっている。  どうしてルシアは、放っておいてくれなかったのだろう。  知りたくもない感情を、世界を、突然押しつけてきた。  このままでいたい。だが、二人きりだった世界は、レオンの返答次第で変わってしまう。  レオンは、変わりたくなかった。  ルシアと二人きりの世界を変えたくなかった。  だからレオンは、発情期を共にする事に了承した。

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