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第4話 同居

「ここにって……僕はこのままここにいていいんですか?」  思わず食べていたパンを落としてしまった。  ここで沖田と2人で生活する、ということなのか。 「特訓だぞ。自分でも分かってると思うが、お前には時間がない。今のままでデビューできると思うなよ」  沖田の声が少し厳しくなる。    そうだ。  僕には選ばれた責任がある。 「翔先生。僕は本当にデビューなんてできるんでしょうか。不安なんです」  食事の手をとめてうつむいてしまった広瀬のことを、沖田は少し気の毒に思う。  たぶんこれまで芸能界などとは無縁の、普通の学生だったんだろう。  混乱して不安になっているのは無理もない。 「心配するな。俺がついてんだぞ。俺がプロデュースして売れなかったやつがいたか」 「それは……」  確かに、沖田がバックアップしたタレントは皆破竹の勢いで売れっ子になった。 「でも、僕は自分で自分に才能があるとは思えません」 「才能なんて、今は必要ない。なあ、隼人。お前は歌のレッスンうけるのも初めてなんだろう?」 「そうです」 「例えばだ。俺はゴルフをやったことがない。まあ、うちっぱなしぐらいは経験したことがあるが、コースに出たことはない。俺は自分でゴルフの才能があるかどうかなんてわからない。ところが、ある日突然コースに出なくてはいけなくなった。お前なら、どうする」 「とりあえず……ゴルフ教室にでも行くかなあ」 「そういうことだ。お前に才能があるかどうかなんてわからない。それを引き出すために俺がいるんじゃないか」 「そうか。そうですよね。最初から才能のある人なんていませんよね」 「うーん……いや、中にはいるだろうけどな。だけどそういうやつに俺の力は必要ない。そんなやつは自力でどっかから這い上がってくる」  広瀬は少しずつ、沖田が自分を選んでくれた理由がわかってきたような気がした。  才能がある、と思って選んだわけじゃなかった、と思うと少し肩の力が抜ける。 「最終オーディションに残ったやつら、お前より実力があると思わなかったか?」 「思いました」 「あいつらは、すでに自分のスタイルというものを持ってる。そんなやつは俺の言うことなんて聞かないさ。自分のやりたいようにやるだろう」  広瀬は自分のスタイルなんてまだ持っていない。  だけど、そのことをコンプレックスに思う必要などなかったのだ。 「なぜ、俺がお前を選んだのかわかるな?」 「はい、なんとなく……」  俺がお前を選んだ、と沖田に言われて広瀬は嬉しかった。  まぐれなんかじゃなかったんだ。  ちゃんと、僕のことを選んでくれた。  沖田のために頑張りたい……頑張れそうな気がする。  張りつめていた気持ちが解けて、広瀬は思わず涙をこぼしてしまった。 「やっと僕は、自分が選ばれたんだっていう気がしてきました。頑張ります」 「そうだ、頑張れ。今は何も考えずに、言われたことをやっていればいい」  沖田は広瀬をあいている客間につれて行って、そこを自由に使っていいと言った。  広瀬が住んでいるワンルームマンションなんかとは比べものにならないほど、広い部屋だ。  ソファーやステレオなど、快適に過ごせる家具などは揃っている。 「スタジオはこっちだ」  広瀬は目をみはった。  防音された部屋の中には、さまざまな楽器やスピーカーなどが整然と設置されていて、テーブルの上には楽譜が散乱している。  ここが沖田の仕事場だ。  こんな神聖な場所に自分なんかが足を踏み入れてもよいのだろうか、と気後れしてしまう。 「俺はずっとお前についていてやることはできない。ボイストレーニングは今までどおり美鈴に頼んであるから、ここへ来てもらう」 「わかりました」 「それから、お前が歌う曲のカラオケはこのCDにはいっているから、毎日録音しろ」  沖田はレコーディング機材の使い方などを簡単に広瀬に説明した。  何もかもが初めてのことで、広瀬は必死でメモをとる。  その日一番うまく歌えた、と思う録音を沖田に毎日聞かせる、ということだった。  これ以上優遇されたレッスンがあるだろうか。  沖田はできるだけ広瀬のために時間をとってくれる、と約束してくれた。  本気で自分と向き合ってくれる沖田の気持ちが嬉しかった。  沖田が仕事に出かけてしまってから、広瀬はいったん自宅に戻り、大きめのスポーツバッグに着替えをつめこんで戻ってきた。  キーホルダーには沖田から預かったマンションの鍵。  それがまるで新しい世界の扉を開く、幸運の鍵のように広瀬には思えた。    一緒に生活を始めてみると、沖田という人物は広瀬が想像していたよりもずっと真面目だった。  芸能人というのは毎日のように飲み歩いたりするものかと思っていたが、沖田が酒を飲んで帰ってくることはない。  広瀬はタダで自分を置いてくれている沖田のために、できる家事は手伝うようにしていた。  朝食の支度や買い物は広瀬の仕事になり、沖田が家で仕事をしている時にはコーヒーを入れたりもする。  昔の言い方をすれば内弟子、というようなものだろう。  スタジオとは別に書斎のような仕事部屋があり、沖田はたいていそこに籠もっている。  その部屋には勝手に入らないように言われているが、コーヒーを持っていく時にのぞいたことはある。  ずらりと並ぶCDや本。  パソコンや録音機材が並べられていて、沖田はそこで曲を書いている。  外出している時以外はずっと曲を書いているのではないかと思うほど、沖田の生活スタイルはストイックだった。  そんな沖田を見ていると、広瀬はさらにやる気が出た。  自分だけがさぼっているワケにはいかない。  ここに置いてもらえてよかった、と思った。  広瀬はこれほど真剣に何かに向き合ったことは今まで一度もなかった。  好きな音楽に没頭できることを幸せだと思う。  

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