5 / 34
第5話 恋、とは
沖田は毎日必ず1~2時間はレッスンの時間をとってくれる。
以前のようなレッスンとは違い、広瀬が録音したものを聞きながらアドバイスをしてくれる。
沖田の前で歌おうとすると緊張してしまうので、このスタイルのレッスンは広瀬にとってはありがたかった。
「お前はどの曲が好きなんだ」
3曲ほどの課題曲の中で広瀬が好きなのは、バラードのラブソングだ。
誰が歌っても売れるのではないか、と思うほど美しく切ない曲だ。
「バラードか。お前、他になにか歌えるバラードはあるのか」
広瀬は沖田の曲で好きなラブソングを思い出す。
それならカラオケで何度も歌ったことがある。
曲の名前を告げると、沖田はどこからかその曲の楽譜を出してきた。
歌ってみろ、というので沖田のピアノ伴奏で、ワンコーラスだけ歌ってみる。
「ふむ……悪くないな。お前、なんでオーディションでバラードを歌わなかったんだ。あの時は軽快な曲を選んでいただろう?」
「それは……きっと他のもっとうまい人がバラードで勝負してくると思ったから」
オーディションの時、広瀬は自分が他の人よりも声量がないことを自覚していた。
比べられたら負けるに決まっていると思ったのだ。
「確かにバラードは歌唱力が問われる。だけど、それ以上に大切なのはハートだ。気持ちの表現の仕方はいろいろある」
意外にも沖田は美鈴と同じことを言った。
大切なのは歌唱力より気持ちだと。
「自信がないからかもしれないが、お前の控え目に抑えた歌い方は切ない感じがして悪くない。これみよがしに熱唱するより説得力がある」
「そうですか」
ほめられたのは初めてなので、広瀬はぱっと明るい顔になった。
何も取り柄がないと思っていた自分の個性を見つけ出してもらえたような気がする。
「普通デビュー曲にバラードを持ってくることは少ないんだが……考えてみてもいいかもしれないな」
沖田はいくつかの注意点を指摘すると、バラード曲を重点的に練習しておくように言った。
こうやって沖田と話し合いながら方向が決まっていくのは嬉しい。
自分の意見も尊重してくれている沖田の姿勢が嬉しかった。
「隼人、お前、好きな人でもいるのか」
からかうのではなく、真面目な顔をして沖田が聞いてきた。
沖田がプライベートなことを聞いてくるのはめずらしい。
「いえ……今は彼女もいないし」
「まあ、今は恋人などいないほうがいいだろうが……恋は大事だぞ、音楽をやっていく上では」
「そうなんですか?」
「そりゃあそうさ。経験したことのない恋の歌を歌う時にどうするんだ」
沖田は笑いながら言うが、それは広瀬にとっては大問題だった。
実は恋などほとんどしたことがない。
高校の時にはつき合っていた彼女がいたが、つき合ってくれと言われてしばらくデートをしていたぐらいのもので、そのうち振られた。
片思いをしたことはあるが、それは友人の彼女だった。
いいな、と思う異性がいても、広瀬の場合はそこで終わってしまう。
激しく胸をこがすような恋愛とは無縁だった。
「この曲はかなり熱愛の曲だ。なのに、お前はなんでそんなに寂しそうに歌うんだろうな」
「変ですか? もっと、声出した方がいいのかな」
「いや、それが閉じこめているように聞こえて、意外性がある」
「そうなんだ」
「前半は今のままでいい。だけどな、気持ちっていうやつはいくら閉じこめようとしたって、どこかであふれ出すものだ。後半の歌い方を考えてみろ」
難しい課題だ。
気持ちがあふれ出すって、どんな感じなんだろう。
その歌詞にあるように、抑えても抑えきれないほどの恋心を、広瀬は経験したことがなかった。
翌日から広瀬は歌詞カードとにらめっこをするようになった。
音程をはずさない、とかそういう基本的なことはできるようになった。
問題は内容をどう表現するか、ということなのだ。
この歌詞を書いたのは沖田だ。
沖田はこんな気持ちになったことがあるということなんだろう。
あれだけ人気のある人だからたくさん恋愛経験があっても不思議じゃない。
だけど今の沖田には恋人がいるようには見えなかった。
そもそも恋人がいたら、自宅に広瀬を住まわせるようなことはしないだろう。
一瞬美鈴が恋人かとも思ったが、美鈴は恋多き女性で、他に彼氏が何人もいそうだ。
恋、かあ……
難問だが避けては通れない。
だいたい歌なんて、ほとんどがラブソングなのだ。
ため息をついて歌詞カードをながめている。
誰かのために生きるってどういうことなんだろう。
家族もなくずっと一人で生きてきた広瀬にとって、想像で恋をすることなど至難の業だった。
ともだちにシェアしよう!