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第15話 最後の日
「隼人……そろそろ起きろ」
広瀬が目覚めると、すでに服を着た沖田がのぞき込んでいる。
広瀬が上半身を起こそうとすると、抱き起こしながら額に軽くキスをしてくれた。
「身体、大丈夫か?」
「うん、大丈夫」
腰が重く、全身が筋肉痛のようにだるかったが、広瀬は無理に笑顔を浮かべた。
こんなことで仕事に差し支えるようなことを沖田は嫌うはずだ。
「シャワー浴びておいで。朝食を支度しておくから」
九時にマネージャーが迎えに来る、と沖田は言った。
広瀬は朝から衣装合わせや取材などの仕事が入っていたが、沖田の仕事は夕方からの収録だけのようだ。
それなのに広瀬よりも早く起きて、朝食の支度をしてくれた。
「あ、目玉焼き」
広瀬は今度は心から笑顔を浮かべる。
「好きだろ? 今日は元気出して頑張るんだぞ」
「はい、頑張りますっ」
まるで母親のような気の配り方だな、と広瀬は思う。
沖田は時には厳しい先生で、兄のようでもあり、父親や母親の代わりのようでもあるのだ。
その時々の愛情の細やかさに胸が熱くなる。
「2週間……本当にお世話になりました。先生のそばにいられて良かった。勉強になりました」
広瀬は出かける前に改まった口調で沖田に挨拶した。
たった2週間とはいえ、これほど誰か他人に甘えたことなどかつて一度もなく、計り知れない恩を感じていたのは事実だ。
そして、このまま離れてしまいたくない、と寂しく感じていたのも事実だった。
広瀬は着替えや身の回りの物をつめて持ってきた大きなバッグを、部屋の隅に置いたままにしていた。
マネージャーが車で迎えに来るので持って帰ればいいのだけれど、それを置いていけばまた取りに来る口実になる、と思ったのだ。
沖田もそのことに気づいているのかいないのか、置きっぱなしであることを指摘されなかった。
「先生……ほんとにありがとう」
玄関でもう一度笑顔を浮かべようとしたが、広瀬はどうしても寂しさを隠せない。また今日もここへ帰ってこれたらいいのに、と思ってしまう。
沖田は広瀬の不安を感じ取ったのか、軽く広瀬を抱きしめ、額にキスを落とす。
「隼人、俺とお前はまだ始まったばかりだろう?」
「そうですよね。行って来ます」
広瀬はこれ以上沖田に心配をかけてはいけないと心に言い聞かせ、営業用の笑顔を顔に張りつけて玄関を出た。
そんな広瀬を送り出した後で、沖田はやっぱり唇にキスしてやれば良かったかな……と少し後悔していた。
夕方からの公開収録は無事に終わった。
広瀬は2週間でずいぶん雰囲気が変わった、と評された。
『大人っぽくなった』と良い意味で誰もが言った。
スタイリストがついて雰囲気が変わったせいもあるだろうけれど、広瀬自身は恋をしたせいだ、と思った。
ちゃんと必要なことは沖田から全部教えてもらったということだ。
歌いながら沖田が少し離れたところに視界に入っているだけでも、胸が苦しくなった。
切ないバラードに感情移入するのに何の苦労も要らない状況だ。
沖田は終始笑顔で広瀬を見ていた。
二週間でよく頑張った方だ。
少なくとも、広瀬の良い部分は引き出せたように思う。
二週間前よりも、表情がはるかに豊かになった。
そのことが歌のうまい下手よりも、聴衆に好感を与えているなという手応えがあった。
収録が終わると美鈴が姿を現した。
美鈴の姿を見ると、広瀬の緊張は和む。
「隼人くん、お疲れさま。良かったわよ」
「ありがとうございます、わざわざ来てくれたんですね」
「翔とはうまくいってるみたいね」
「はい、とても良くして頂きました」
「良かったわ、あの時無理矢理翔に隼人くんを返して」
そうだ。
思えば美鈴に食事に誘われて酔っぱらったのがすべての始まりだった。
あの晩、美鈴が沖田を呼んでくれなかったら、この2週間はまったく違うものになっていたかもしれない、と広瀬は美鈴に感謝した。
「翔に食われなかった?」
美鈴が悪戯っぽい目で笑いながら聞いた。
何と答えて良いのかわからずに、広瀬はどぎまぎしてしまう。
美鈴は広瀬の目をのぞきこむように意味深に言葉を続ける。
「翔、優しいでしょ」
「はい……あの……」
「隼人くんを見つめる目がデレっとしてたものねえ」
「誰がデレっとしてるって」
突然沖田が後ろから現れて、美鈴の頭を小突く。
「あら、翔、お疲れさま。純情な青年に翔が悪さしてないか聞いてたのよ」
「お前みたいに酒飲ませて酔わせたりはしてないぞ」
「人聞き悪いわねえ。ちゃんと翔のところに返したじゃないの。仲良くやってるみたいで安心したわ」
「美鈴に心配してもらわなくても、隼人は俺のモンだからな。なあ、隼人、そうだろ?」
沖田が広瀬の肩を抱いて軽く髪に口づけると、広瀬は美鈴の前でそんなことをするなんて、と赤くなって固まる。
「うわ、独占欲丸出し」
美鈴はあからさまに顔をしかめてみせる。
「隼人くん、翔には気をつけた方がいいわよ。本当に食われちゃうから」
美鈴の警告はすでに何の役にも立たないのだが、と思いながらも広瀬は笑ってうなずく。
「いいんです、翔先生だったら俺」
「お、なかなか殊勝な心がけだ」
「あーあ。私はお邪魔虫かあ。心配して損しちゃった」
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