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第16話 ご褒美

 無事収録を終えて、2週間ぶりに広瀬は自分のマンションに帰った。  自宅の鍵を開けようとして、ふとキーホルダーについているもうひとつの鍵に気付く。  沖田のマンションの鍵を返すのを忘れていた。  何も言われなかったけれど、沖田は気付いているのだろうか。  沖田と一緒になる仕事は当分ないので、広瀬はメールをしておくことにした。  沖田は携帯のメールを一切しない。やり方も知らないらしい。  だけど、広瀬からのメールは読むだけは読んでくれる、と言ってアドレスは教えてもらった。 『今日はお疲れ様でした。マンションの鍵を返すのを忘れました。今度会った時に返します』  用件だけの簡潔なメールを送る。  あまり長いメールは、メール嫌いの沖田から嫌われてしまいそうな気がしたからだ。  返事は……ないだろうな。やり方知らないと言っていたし。  今時携帯のメールをできない芸能人というのもめずらしいと思うが、沖田の性格からするとうなずける。  仕事の邪魔になるだろうし、いちいち返事をしていたらキリがないだろう。  でも、電話をかけてきてくれることはないだろうか。  メールを送るとつい余計な期待をしてしまう。  メールを送って一時間ほどたった時に、携帯の着信ランプが光った。  紫のランプ。  沖田の着信が区別できるようにわざわざ設定しておいたのだ。  広瀬は飛びつくように携帯を開いた。 『かまわない』  たった5文字のひらがな。  なんだよ……かまわないって。  鍵、持っていても構わないのか?  それとも今度返してくれたら構わないということか。  意味がわからないよ……  だけど、メールのできない沖田がこれを打つのには時間がかかっただろう。  返事が来ただけでも嬉しい。  沖田が一生懸命携帯を操作している姿が思い浮かんで、胸が熱くなった。  翌日も仕事が終わってからメールをしてみた。  一日に一度だけ、仕事の報告のメールをいれよう、と決めた。  それ以上は迷惑になるから我慢しよう。  撮影や収録の仕事がうまくいったこと、明日はどこの現場に行くのかということを長くなりすぎないようにまとめて送ってみた。  沖田から返信があったのは深夜だった。きっと今まで仕事をしていたのだろう。 『がんばれ』  ひらがなだけの4文字のメール。  どうやらまだ漢字は打てないようである。  でも、それだけで頑張れる。  一週間後にはレコーディングが控えている。その時には沖田にも会えるはず。  日に日に忙しくなっていくスケジュールをこなしながら、広瀬は沖田に会える仕事だけを心待ちにしていた。  レコーディング当日、スタジオにたくさんのスタッフと沖田の姿があった。  広瀬はマネージャーに連れられて、スタッフ全員に挨拶をした。  これから3日間、沖田も一緒に仕事だ。  沖田は広瀬に笑顔を向けてはくれたが、仕事独特の神経質な空気をまとっていた。  作曲家としての沖田の仕事を見るのはこれが初めてだ。  広瀬は急に緊張が高まっていくのを感じていた。  いつも優しかった沖田の険しい顔を久しぶりに見て、広瀬は急に不安になった。  沖田を満足させられる歌が歌えるのだろうか、と足が震えてくる。  静まりかえったスタジオの中に一人で立たされ、スタッフの真剣な目がすべて広瀬に向けられていた。 「仮歌なので、気楽にいってください!」  スタッフの明るい声が、モニターを通して届く。  仮歌というのはバックのミュージシャンが演奏を録音する時に歌がないと分かりずらいので、ガイドとして聞けるように歌を仮に入れておくことだ、と説明を聞いた。  だから、これはリハーサルだ。  練習だと思えばいい。  そう自分に言い聞かせてみるが、スタジオの空気になかなか慣れることができずに、緊張してしまう。  1番を歌い終えて2番の出だしの歌詞を間違えてしまった。  ヘッドホンから聞こえていた伴奏がブツっと途切れ、スタッフの声に代わる。 「間奏から出します」  再び音楽が流れ始めると、今度は出だしの位置を見失ってしまって、歌い出せなかった。 「はい、もう1回同じところからいきます」  スタッフは慣れているのか、淡々と作業を繰り返す。  しかし、繰り返すほどに緊張が高まって、今度は声が裏返ってしまう。 「どうしますか? ちょっと休憩しますか?」  スタッフが尋ねてきたので、ガラスの向こう側にいる沖田の顔を見る。  一度出てこい、と手招きをしている。 「すみません、休憩します。ちょっと飲み物を」  スタジオから出ると、沖田が難しい顔をしている。叱られるのだろうか。 「ちょっと来い」  沖田に連れられて、別室へ行く。  久しぶりに会った沖田と2人きりだというのに、情けない。 「どうした。仮歌だからそんなに緊張しなくていいんだぞ」 「すみません。ちょっとまだ空気になじめなくて」  気むずかしい顔をしていた沖田の表情が和らいだ。 「まあ……無理もないな。初めてなんだし」  そして沖田は優しく広瀬を抱きしめた。  そのために別室に連れてきたのだ。 「ちゃんと歌えたら、何かご褒美をやろう。そのことを考えながら歌え」  沖田の声は家にいる時の優しい声だった。 「ご褒美?」 「ああ、なんでもいい。考えておけよ。ちゃんと歌えたらだぞ」 「だったら……キスして欲しい」  沖田はその広瀬のリクエストに苦笑した。  久しぶりに会ったのだから抱きしめてキスでもしてやろうかと連れてきたのに、ご褒美がキスと言われてしまった。  沖田の方がお預けをくらったような気分だ。    だけど、広瀬がそう言うのなら、キスはレコーディングが終わるまでとっておこう。  それで頑張れるのなら、それでいい。 「わかった。出来がよかったらとびきりのやつをな」  沖田が広瀬の唇にちょん、と指で触れると、広瀬は嬉しそうに照れた。  緊張は少し解けたのかもしれない。  

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