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第31話 翔び立つ
成田まで沖田の姉が送ってくれて、車を預かってくれることになった。
記者会見の時の服装のままだと人目につくので、姉が適当な洋服を買いにいってくれて、車の中で着替えた。
海外に行くとは思えないような、本当に普段のバッグひとつの軽装だ。
必要なものは行った先で買えばいいと沖田は言う。
そう言えば、どこに行くのか聞く暇もなかったと、広瀬は思い出す。
「翔、どこに逃避行するの?」
「ロサンゼルス。俺の第2の故郷みたいなもんだ」
「行ったことあるんだね」
「昔な。お前ぐらいの年の頃に」
サングラスと帽子で顔を隠して、搭乗ゲートへ向かう。
悪いこともしてないのに、逃げ隠れする生活には少し疲れた、と広瀬は思う。
芸能人なんて、つくづく自分に向いてなかったような気がする。
「広瀬くん、翔のこと、よろしくね」
「大丈夫です。死ぬまで沖田さんのそばにいます」
「可愛いだろ? こいつ」
「まあ、翔にはもったいないけど。ちゃんと連絡入れなさいよ」
「わかってるよ。車よろしく」
姉に車のキーをぽいっと渡して、沖田は搭乗ゲートをくぐった。
後を追いかけるように、広瀬もゲートをくぐる。
もう、ここから本当に沖田とふたりきりだ。
誰も知った人のいない場所へ行く。
仕事も家も、何もかも放り出して。
先のことは何もわからないし、決まっていない。
それが急に現実になって襲いかかってきたようで、うれしいような不安なような気持ちが高まって、気がついたら広瀬の頬に涙がつたった。
「隼人、何泣いてんだ。嫌なのか?」
「違う。ごめんね、こんなことになるなんて」
「お互いに謝るのはやめようって、お前が言ったんだろ」
「そうだけど……」
「お前、旅行行きたいって言ってたじゃないか。そうだろ?」
「うん、行きたい」
「なら、楽しもうぜ。こんなチャンスなかなかないぞ」
ラウンジのような待合室で、飛行機を待つ間、のんびりとコーヒーを飲む。
周囲にいるのは外国人ばかりで、ふたりのことを気にする様子などない。
さっきまでけたたましいマスコミの群れに囲まれていたのが、嘘のようだ。
外でゆっくりコーヒーを飲むという、たったそれだけのことが今までなかなかできなかった。
でも、これからは時間も自由も、無限にある。
それが、すごく不思議な感覚だった。
沖田はいつもいつも忙しかったから。
ただ、家で待っているのが広瀬の仕事だった。
「俺、ファーストクラスなんて乗るの、初めてだ」
「実は、俺も初めてだぞ。今回は特別だ」
「いいの? そんな贅沢して」
「ああ。俺たちのことを知っている人間に会いたくなかったからな」
今、人に会いたくない気持ちは広瀬も同じだ。
今日の報道番組を見ていた人には誰にも会いたくない。
静かなファーストクラスの機内は、完全にプライバシーが保たれていて、人と顔を合わせることはなかった。
アテンダントが座席を回って挨拶にくる。
沖田とメニューを見ながら、シャンパンを頼んで乾杯した。
「何に乾杯?」
「俺たちの、新しい人生に、だろ?」
「そうだね。なんか新婚旅行みたいじゃん」
「こんなゴージャスな新婚旅行、なかなかないぞ」
元気づけようとしているのかもしれないけれど、沖田は楽しそうだ。
今まで一度も切ったことのない携帯の電源を切って、バッグにしまう。
もう、誰からも連絡がくることはない。
寂しいような不安なような、それでいてもう誰にも邪魔されないという最高の幸せがセットになっている、逃避行。
沖田が、この経験だけでいくらでも曲が書けそうだと言って笑う。
ファーストクラスの座席は、完全に席が孤立していて、ついたてで周囲が見えないように囲われている。
隣にいる沖田の姿が見えないし、手をつなぐこともできないのが寂しい。
こんなに近くにいるのに、触れられないなんて。
「隼人、こっちくるか」
「いいの?」
「シートベルトサインが消えてる間は大丈夫さ」
シングルベッドほどの狭いスペースに、無理やりふたりで座って、夢中で唇を重ねる。
こんなに長い時間一緒にいて、キスをしなかったのなんて、久しぶりだった。
「ここで出すか?」
沖田がそろり、と広瀬の下半身に手を伸ばす。
「ダメだよ、声、出ちゃうから」
目を閉じて、抱き合っていると、ここが機内だということを忘れてしまいそうになる。
たぶん、世界中のどこへ行ったとしても、ふたりでいるときには何も変わらないんだろう。
今朝まで一緒にいた、沖田の部屋を思い出して、少し懐かしく思う。
こんなに何もかも突然なくすなんて、想像もしていなかった。
いつかまたあの部屋に帰れるといいな……
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