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第8話 日常
――おはようございます。昨日はありがとうございました。アラーム、多分セットできたと思うのですが。もしもセットできてなかったらごめんなさい。とても楽しかったです。 汰由。
八時でよかったかな。
でもアパレルって言ってた。確かにネクタイ、結ぶのがすごく手早くて上手だったし。あとバスローブの腰紐も。
――汰由。ちゃんと、見て。見られてないか、ほら。
その瞬間思い出したのは、夜、窓際に立ったまましてもらった行為のことで。頬が真っ赤になったって自覚できるくらいに、熱くなった。
「っ」
ぎゅっと俯きながら、朝、平日のこの時間帯にしては空いている電車に揺られながら俯いた。きっと、反対ルート、上り方面の電車はいつも通りに混んでいると思う。でも、この朝の通勤ラッシュの時間に登山なんかも楽しめる終点の方へと向かう下りの電車に乗る人は少ない。
「……」
すごい一日だったな。
思い返して、改めて信じられない一日のことを思った。電車の外の光景はとても見慣れた景色。毎日使っている電車の窓から何度も見た景色。でも、この時間帯にこの流れる方向では見ないからか、少し不思議な感じがする。帰りの、夜、もしくは夕方に見かける風景の移り変わりを朝、清々しい時間帯に眺める不思議。
「!」
その時、カバンの中でスマホが短く振動した。
誰かからメッセージだ。
「……ぁ」
メッセージは幼馴染の晶(あきら)から。
――とりあえず、おばさんから連絡とかなかったよ。午後、大学でね。
そんなメッセージにホッとした。
よかった。特に詮索の電話はなかったんだ。
そう安堵したところでちょうど、窓の外の景色は移り変わりがゆっくりになって、次の駅のホームに滑り込むところだった。毎朝、美味しそうな匂いをさせるパン屋さん、お母さんの好きなベーコンとポテトサラダのパンが美味しいパン屋さんが見えた。
あ、メガネ、かけないと。
慌てて家の前でカバンにしまっていたメガネを取り出した。
駅から歩いて五分もかからない。
けれど、普段なら朝、駅へと向かうはずなのに今日は駅から自宅へと向かうから、なんだか、すれ違う人に「朝帰り」だと知られてしまいそうで、つい俯きがちになった。誰も俺のことなんて知らないのに。
朝帰りをしたっていう事実が、勝手に俺のことを突ついてくる。
「た、ただいま」
やましいことをしてきたっていう事実が。
「あら、おかえりなさい」
「ぅ、ん」
「勉強会どうだった?」
「う、ん。順調、だった」
「そう」
にっこりと微笑んでくれる母に、後ろめたい気持ちがむくりと起き上がる。
「大学は?」
「あ、うん。行く。今日は講義お昼前にひとつと、あとは午後からだから」
「そう」
「着替えて、少ししたら行きます」
あまり無理はしないようにね。頑張りすぎて体調崩して、休みになったら元も子もないのよって言われて、コクコク頷きながら。
「あ、あの、これ、いつものパン屋さん」
「あら、買ってきてくれたの?」
「う、ん。お昼に食べるかなって思って」
「まぁ、ありがとう」
後ろめたさが顔に出ちゃってそうでそそくさと自室に向かった。
「はぁ……」
そして自分の部屋に戻って、小さく、お母さんに聞こえてしまわないように溜め息を吐いた。
買ってきたのはベーコンとポテトサラダのパン。ここのも美味しいんだけど、俺はここのじゃなくて、大学に行く途中、大学最寄りの駅のところにあるベーコンとポテトサラダのパンの方が美味しくて好き。ポテトサラダのポテトがゴロゴロしてて、味付けもあっちの方がブラックペッパーが多くて好き。あと、そっちの方がスープもあるんだけど、スープは頼んだことない。
「……」
あの人、起きられたかな。
「……」
義信さん。洋服屋さんで働いてるって言ってた。
それなら八時にアラーム鳴れば、間に合うよね。
起きて、俺がいないことに驚く、かな。驚かない、かな。
朝、目が覚めて飛び上がるくらいにびっくりした。だって、明るい室内ではその顔がよく見えて、本当に、すごくかっこいい人だったから。すごいモテそうな人だった。
それこそ、お金を出して、ああいうことをする相手を買わないといけないようなことなんてないと思う。むしろ義信さんが誘う前に、相手の方から寄ってきそう。そのくらいにかっこよかった。
あんな人にしてもらった。
―― ね、汰由? 君、もしかして、初めて?
俺の、初めて。
―― セックス、興味があったの?
優しかった。
―― キスは大好きな人としたほうがいいよ。
あんなに人に初めての相手をしてもらえたなんて。
すごいことだ。
いつも、いつもいつも、この部屋で想像してた。動画見漁って、妄想ばっかりが膨らんでいった。そのうちしたくなって、ついにあんなアルバイトなんて怖いことに手を出して。
助けてもらったんだ。
俺の日常からは程遠い一日だった。
―― そのほうがずっと気持ちいいから。
キスは……まだ。
どんななんだろう。
キスって。
「……」
義信さんにしてもらえたらいいのに。
キス。
義信さんが肌にくれたキスはとても気持ち良かったから、震えるほど気持ち良かったから、だからあれをもしも口にしてもらえたら。
それはどんな心地なんだろうって想像しつつ、昨夜何度も義信さんにしがみついていた自分の手で触れた。目を閉じて。
「……義信さん」
彼のことを思い出しながら、唇に、触れた。
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