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第9話 お天気雨

「ふぁ……」  今日、何回目のあくびだろう。誰にも見られないように俯きながら、そんなことを考えた。あくびで出てしまう涙を指で拭って。  眠い。  当たり前だ。  ほとんど寝てないんだから。  朝方まで。  ――汰由。  してたんだから。 「たーゆっ」 「!……晶」 「どうだった? おばさん、上手く誤魔化せた?」 「あ、うん。ありがと」 「どーいたしまして」  晶はにっこりと笑いながら、ランチのセットを乗せたお盆を俺の目の前に置いて、向かいの席に腰を下ろした。 「あ、汰由、Aのランチセットにしたんだ。多くない?」 「あ、うん。平気」  お腹、空いてたんだ。昨日からあんまり食べてなかったから。かといって、家で食べてるとお母さんが色々訊いてきそうだから、大学に来る時間まで部屋で仮眠してた。 「にしてもうちで勉強会なんてアリバイ作ってどこ行ってたんだよー」 「別に。どこも。オールナイトで映画見てただけ。好きな映画の」 「……ふーん」  晶とか小学校からずっと一緒の、いわゆる幼馴染っていうやつで、うちの親も晶のことは知っている。と言っても、私立の、小学校から一貫教育のうちの大学にはそんな「幼馴染」がたくさんいる。その中で、とても少ない「友達」の一人。 「まぁ、いいけどね。どの映画見てた、なんてことを訊くつもりもないし」  少ない、じゃなくて、一人、かもしれない。 「とりあえず、誤魔化せたんならよかった」  唯一の友達。 「にしても眠そー」  そこで晶は笑いながら、ランチセットのサラダからミニトマトを俺の小皿にお裾分けしてくれた。 「昨日のアリバイ肩代わりしてあげたお礼ね」 「…………俺もミニトマト苦手なのに」 「美味しいよー。甘くて。だからどうぞ」  残すのは良心が痛む。だから、えいって口の中へと放り込んだ。けれど、やっぱり苦手。  甘い、なんてよく言う人がいるけれど、甘いというほど甘くもなく、酸っぱいというほど酸っぱいわけでもない。その中途半端さがよくわからなくて。 「にしても慣れない」 「?」 「汰由の俺呼び」 「……」 「おばさんもびっくりしてたじゃん? いつからだっけ、俺っていうようになったの」 「…………いいじゃん、別に」  俺って、いうようになったのは、ちっぽけな「俺」の、ささやかな抵抗。  ――汰由?  最初に「俺」って言った時、お母さんは少し険しい視線をこっちに向けて、「どうしたの?」なんて訊きたそうな顔をしていた。  意を決して言ったんだ。  俺、って。  突然。  それはわずかでささやかで、非力な抵抗。  きっと指先のささくれ程度の煩わしさにしかなれないだろうけれど。  ――どうしたのだろう。  そう思っていそうなお母さんの視線をかいくぐって、小さな主張を今も続けてる。 「午後、大丈夫? 薬理あるじゃん。あの教授、話す声ちっちゃいから眠くなる」 「……平気」 「ホントー?」  頷いてはみたものの、やっぱりまたあくびが出てきそうになって、ぎゅっと口を結んでこらえた。晶はそんな夜更かしをしてどこに行っていたのかも話さない俺を放っておいてくれる。訊かずにいてくれる。 「あはは、無理そー。あ、眠くなったらえっちぃこと考えると目が覚めるかもよ」 「!」  ――汰由。 「な、何、言って」 「あははは。だって、人間の三大欲求のひとつじゃん。睡眠、性、あと食」  ――上手だね、汰由。 「って、汰由はそういうのほっんと無頓着だもんねぇ」 「っ、あ、当たり前じゃん。そんなの」 「まーね」  こんなに眠い理由は言えない。  幼馴染で、一人しかいないと言っていい友達の晶にも。  昨日、俺がどこにいたのか。 「晶……」 「?」  昨日何をしていたのかなんて。  今、何を思い出して、今、どこがぎゅっとなったかなんてこと。 「ありがとね」  絶対に言えない。  結局午後の講義の内容は頭まであまり届いてくれなかった。薬理、それでなくても苦手だから。  大学から駅までの道を歩きながら、俯いて、また一つあくびをした。  眠かったのもある。  けれど、講義の内容が頭に入ってこなかったのはそれだけのせいじゃない。  ――汰由。腰が揺れてる。  晶のせいだ。  晶があんなこと言うから。まだ身体に残っている余韻をすごく意識してしまった。ふとした瞬間、たとえば腰を屈めた時、首筋に風が触れた時、その都度、昨夜のことを思い出す。  あの人としたこと。  あの人の硬いのが俺の奥のとこをたくさん突いたこと。  ぎゅっとあの人の背中にしがみついたこと。  あの人がイク時、耳元で俺の名前を呼んでくれたこと。  昨日したセックスのことを……。 「!」  その時、まるで神様が講義も聞かずに何をしているんだと叱るように、雨が降り出した。 「わっ」  空、雨雲はないのに? まだ日差しがあって、足元には影も落ちているのに?  そう思って空へと顔を向けると、青空に真っ黒な雨雲がちぎってばら撒かれたように点々と漂っていた。  お天気雨。  不思議な光景だった。  どんどんと強くたくさん、雨雲から降り出す雨を青空から降り注ぐ太陽が照らして、キラキラって光る粒になって落ちていく。 「わ、あっ」  なんて見惚れている場合じゃないほど雨は強さを増して。それでも太陽は降り注いで。きっと通り雨なのだろうけれど、それにしても濡れてしまうって駆け出した。  駆けて、どこでもいいから雨をちょっとでも凌げる場所へ避難を――。 「ふぅ……」  辿り着いたのは小さなお店の屋根の下。  こんなところにお店なんてあったんだ。気が付かなかった。 「……」  洋服、屋さん?  メガネが、雨で濡れてしまってガラスに雫がくっついていてよく見えない。  メガネを外して布で拭いてから、まだ濡れている自分の髪でまたそのメガネを濡らしてしまわないようにって、手に持ったまま窓の中を覗いた。  お店の人に叱られるかな。  雨宿りさせてもらっている屋根はちょうどお店の中が伺える窓がある。そこには洋服とアクセサリーがディスプレイされていて。五月、梅雨の時期だからかな。青色とグリーンに統一された小物たちが素敵で。一緒に置いてある……マネキンが着ている服、サマーニット、ってやつかな。それが海のような空のような綺麗な色で。  素敵だなぁ、なんて。  もちろん、買えないし、買わないけれど。でも――。 「君……」 「?」  お店から、人が出てきた。  かっこいい人、だった。 「……汰由?」  それは今日、何度もしたあくびよりもずっとたくさん、何度も何度も思い出した声だった。  低くて優しい声だった。

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