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第10話 神様のいたずら

「汰由?」  洋服屋さんって……言ってたっけ。 「汰由」  義信さん……の、お店? 「汰、」 「ち、違います!」  ここ? 「汰由っ!」  ここのお店の人、だった?    慌てて、メガネを握りしめたまま走ってそこから逃げ出した。  義信さんだった。  昨日はスーツだったから。今日はニットでちょっと雰囲気が柔らかくなってたけど。髪型とか、スーツの時はもっとビシッと、後ろに流しててかっこいい大人の男って感じだったけど。  ――汰由。  でも、シャワーした後の義信さんもあんな感じだった。少しだけ緩くクセのある髪が優しい口調で話しかけてくれるあの人の印象にすごく合っていて。  背もすごく高くて。  そう、今みたいに並ぶと見上げるくらい。  服着てるとすごくスラリとしていて、スリムな感じで。でも脱ぐと筋肉すごくて。同じ男なのに全然違っていて。俺のこと軽々抱き上げちゃうんだ。  ――あ、義信さんっ。 「っ……バカ」  何思い出してんだよ。  辿り着ついたコンビニの屋根の下で乱れた呼吸を手の甲で押し戻すように、口元を押さえながら、もう片方の手を肘に置いて。 「は、ぁ」  びっくり、した。  あそこにお店があったなんて。  花がたくさん植えられていて、素敵な庭の一軒家だと思ってた。そう思い込んでいたから窓から中を覗くようなことも不躾だと思って通る時もあまり見ないようにしてたし。歩き慣れた道だから、それこそ周囲をキョロキョロ眺めることもなく、駅から少し距離のある大学までの道のりを急いで歩いていた。お父さんの出身校だから俺に他の選択肢なんてなかったけれど、だからこそ大学の場所がもう少し近かったらいいのに、なんてブツブツ文句を胸の内で思いながら。 「……嘘、でしょ」  違います、なんて言って駆けて逃げてしまった。  だってもう二度と会うことはない人だと思ったから。もうきっと会えないんだと。 「はぁ……」  気がついたら雨は止んでいた。そして、雨が降っていたとは思えないくらいに強く西向きの傾いた日差しがびしょ濡れになったアスファルトを大急ぎで乾かすように照り付けている。  本当に、瞬間的な通り雨だったんだ。 「ど、しよ……」  義信さんのこと探し出したみたいに思われていないかな。あんな大人の男に夢中になった未経験者なんて思われて、それで、引かれたら、やだな。  呆れられたりしたら、やだな。  そう思ったら、わずかにだけれど、胸がチクリと痛んでつらくなった。 「明日から、別の道、通らなくちゃ」  もう会わないように。  追いかけてきた、なんて思われて、気持ち悪がられたりしないように。  迷惑って思われないように。  少し遠回りだけれど、手前で曲がっていけば平気。電車、これから一本早くしなくちゃダメかな。  また、お母さんに、どうかしたの? って訊かれそうだ。また晶と勉強会するって言おうかな。そこまでしなくてもいいかな。たった一本電車を早めたくらいで言い訳なんてする方が不自然かな。  駅に辿り着いて、少し、考えた。  義信さんの働いてる洋服屋があそこなら、どこかですれ違ったりしてたのかもしれない。最寄駅ってことなんだからよく利用してたはず  俺そんな人としちゃったんだ。  セックス。  それってすごいことだよね。  あんな素敵な人が言いふらしたりはしないだろうけど。アルバイトのことだって。 「ただいま」 「あら、おかえりなさい。どうだった? 大学」 「あ、うん」  不定期で行われる小テストみたいな、お母さんの、俺を探る質問にいつも通り答えながら自室へと階段をのぼる。  なんてお店なんだろう  看板とかわからなかった。  ネットで調べたら出てくるのかな。  あの辺って住所なんだろう。地元じゃないから細かい地名まではよくわからない。住所とジャンルを絞れば、ネットで見つけられ――。 「…………!」  ない。 「え?」  俺の大学の学生証、それから薬剤倉庫への入室カードキー。  同じパスケースに入れていたはず。大学を出る時にカバンの内ポケットに入れて、それから……。 「どこ……あ!」  さっきかもしれない。  さっき、メガネを拭こうとして、同じように内ポケットに入れているメガネケースからメガネ拭きを、出したから。その時に?  だって、その時くらいしかない。あとはパスケースをしまったことしか記憶には残っていない。だから、それを落としたとしたら。 「……義信さんの」  あそこしか、ない。 「……」  もう会うことはないだろうって思った。  あんなこと、普段の俺には到底起きないことばかりで、すごくすごく不思議な一日だった。あんなかっこいい人に、俺のことを……なんて。  それは神様が気まぐれでくれたプレゼントみたいにもう二度と起こらない夜。  あの夜景も。  義信さんも。  あの時間も。 「……そんな」  お天気雨が降らなかったら、普通にお店の前を通っていた。いつもみたいに。いつも通りに。  でも、晴れているのに雨が降って。  いつもどこかのお家の庭だと思っていた窓のところで雨宿りをして。  そしたら、義信さんのお店だった。  たくさんの偶然。そのどれ一つでも欠けていたら起きなかった。学生証を落とすなんてことも、なかった。  こんなこと、まるで神様が――。 「どう……しよう」

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