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第13話 アルコイリス
「すごい……綺麗な名刺」
課題のレポートを書いている手を止めて、デスクの横に置いた名刺を手に取った。
思わず、そう自分の部屋でポツリと呟いて。
義信さんからもらった名刺。
掌、ちょうどそのくらいの小さな紙切れのはずなのに、彼の人柄の柔らかさが紙切れから読み取れる。黒じゃなくて少し濃いグレーで綴られたお店と彼の名前は下に記された、羅列されている連絡先の番号へ向かって段々と色が淡く薄れていく。
そしてその文字たちを邪魔しない程度に植物のシルエットだけが形取られ、そこに水彩画? みたいな、これも淡い、グリーンと桜色が重なるように色付けされていて――。
まるで花、みたい。
そんなことを思った。
「アルコイリス……」
響きの柔らかな名前。
「……国見さん」
優しい人。
「……」
名刺なんて初めてもらっちゃった。
もらい方、あってたかな。作法みたいなの分かってないから、間違っていそう。そういうのも慣れてたなぁ。
仕事してる人って感じ。
受け取るだけで慌てちゃって、頭の中は無駄に忙しくなっちゃって、そんな様子が面白かったのか義信さんは名刺を受け取る俺を見て笑ってた
バカにしたような笑い方じゃなくて。
優しい笑顔。
拙いことを可愛いと思ってくれてそうな。
「…………そ、んなわけ、ないじゃん」
可愛いなんて。
俺みたいなのなんて。
地味で、無知な子どもで手がかかるって思ってるに決まってるじゃん。
確かにそうだし。
「……」
でも、アルバイト、させてくれるって。
明日、講義終わったら、五時に。
「ただいま」
課題の手を止めてデスクに伏せながら、名刺を眺めていたら、下の玄関から声が聞こえた。
俺は慌てて、部屋から顔を出して。
「おかえりなさい」
「帰ってたのね」
「あ、うん」
お母さんだった。
「今日は大学どうだった?」
「うん。晶クンのところでしっかり復習できたからレポートとかももう提出したし」
「そう……ならよかったわ」
うちでは晶のことを、クン付けで呼んでる。小学校から一緒で、その頃の呼び方で呼んだ方が親的にはしっくり来るみたいで。本当は「晶」って呼んでるけど、こういう会話の中でそう呼ぶと、少しだけ、ほんの少しだけお母さんは表情を渋くさせるから。
「……汰由」
「はい」
「少し前髪長いんじゃない? 目に入ると、目、悪くなるわよ?」
「あ、うん。課題とかで忙しくて……あ、あのさ」
「?」
言っておかないと。
「俺、アルバイトしたいんだ」
「……アルバイト?」
「近く、なんだけど。社会勉強。大学の方に影響ないようにって配慮してくれて、土日もでなくてもいいし、出てもいいらしいけど。大学終わってからの数時間でいいって言ってくれてて、シフトとかもないから、その、テストの時とか、課題が詰まってきたりしたら休めるし」
「……」
「勉強に支障なくて、影響なくて、それで」
「いいんじゃない?」
「ホント?」
「えぇ、お医者様になるにはいいかもしれないわね。社会勉強も。それに勉強のこと配慮してくれるんでしょう? お父さんも大学の時はアルバイトしてたって言ってたし」
やった。
「いいんじゃない?」
やった。
「ありがとう」
アルバイト、承諾してもらえた。
「それじゃあ、課題の続きあるからっ」
嬉しくて、階段を駆け上ってしまった。
だって、だって、そんなすんなり許可なんて降りないと思ってたから。お店のことを根掘り葉掘り訊かれるって、義信さんがどんな人なのか細かく説明しろって言われるって、思ってたから。
「!」
自室に飛び込んで、弾む胸を少しでも落ち着けないとって思うけれど。
予想と違いすぎて、嬉しくて。つい、ベッドに腰を下ろしながらはしゃいだ。
「……やった」
そして、そう小さく呟いた。
五時、だから、少し走っていかなくちゃ。
「あれ? 汰由、用事?」
「あ、晶。うん。ちょっとね」
「そっか」
「うん。それじゃあ」
よかった。今日、雨じゃなくて。もしかしたらまたにわか雨があるかもしれませんっていうから、折り畳み傘は用意してきたけど。
でも、空を見上げると「もうそろそろ降らそうかな」と言いたそうな灰色の雲が空を覆っていた。
だから傘を握ったまま、まるでリレーの選手みたいに大学を飛び出した。
ラストの講義の先生、失念してた。話がよく逸れていっちゃう人で、逸れると止まらなくて。大体三回に一回は講義がチャイムの後も続くんだよね。えんちょう先生なんて呼ばれてるくらいで。
だから五時にもうすぐなってしまう。
「はぁっ、はぁ」
初日から遅刻なんて、ダメじゃん、て。運動得意じゃないから、足がもつれそうになるけれど、走って。
走って。
遅刻しちゃうから。
「こ、こんにちはっ!」
飛び込んだらダメだけど、慌てながらお店の扉を開けた。
乾いた鈴の音がカランコロンって鳴って。
「……」
義信さんが目を丸くして。
「こんにちは」
「あ……」
「リレーの練習?」
「え? あっ」
洋服を畳んでいる手を止めて。
「ごめん、言い忘れた。来る時は裏手から、アルバイトの汰由君?」
「! す、すみませんっ」
そう言って笑ってくれた。
その笑顔に、俺は、リレーのバトンみたいに持っていた傘をぎゅっと両手で掴んで。
「雨、降らなくてよかったね」
「は、はい」
「おいで、荷物はこっち」
義信さんにまるでバトンを渡すように、差し出された手に持っていた折りたたみ傘を手渡した。
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