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第16話 踊る気持ち
「わ……すごい……大丈夫かな。背中、見えないの、かな」
――今日はあのTシャツ着てくるかと思ったよ。
水曜日の定休日の翌日、木曜にアルコイリスに行くとそう言われちゃった。
似合っているとプレゼントしてもらったTシャツのこと。
着ていかなかったんだ。大学、あるし。いつもワイシャツにベストかカーディガン。それがいきなりこんなデザインのTシャツになったら悪目立ちしそう。地味で普通、そんなのがいきなりさ、変わったらびっくりされそうで。
「変……じゃないかな」
親にもあまり見られたくないし。
だから、今日、着ようと思ったんだ。
今日は土曜日で大学ないし。早くからアルコイリスに行けるから。
「汰由?」
「は、はいっ」
部屋の扉の向こう、お母さんがそこにいて、ノックの音に飛び上がって驚いた。大急ぎで、カーディガンを羽織った。家を出る時にはそれを羽織ろうと思ってたから。
「はいっ」
ドアから顔を出すと、お母さんが目を丸くして少しだけ身構えた。
「……お母さん、仕事に行ってくるわ」
「あ、うん。行ってらっしゃい。今日って」
帰り遅くなる日だよね? カレンダーにはそう書いてあった。でもたまに病院のシフトが急に変わることもあるから。けれど、自分のことでもない時間スケジュールを気にしてしまうと、お母さんに変に怪しまれそうで。
「えぇ、今日は帰りが遅いから」
「あ、はい。大丈夫。夕飯くらい適当にできるから」
「そう?」
「うん。そのくらいできるよ」
「そうね」
そして、それじゃあ、行ってきます、と言うお母さんに手を振った。
別に、アルバイトに行くくらいなら何にも言わないだろうけれど。なんとなく、何か言われてしまうんじゃないかって思ってしまう。もう二十歳すぎの、大学生に親がそこまで干渉なんてしないだろうけれど、もう、習慣付いちゃってるんだろうな。いつでも行動の良し悪しを吟味されてるような気がして。
「……ふぅ」
洋服のことも、何か言われてしまいそうで。家を出る時だけカーディガンを羽織って行こうと思ったんだ。背中のデザインが見えないように、つい、癖で、隠そうとしていた。
「って俺ももう行かなくちゃ」
今日はシフト、午後から閉店までなんだ。
午前中にシャワーを浴びて、準備して、ただの仕事だけど、何度も鏡で確認してしまった。変じゃないかなって。
だって――。
「メガネ……」
ない、ほうが……いい、かな。
「…………うーん」
そこまで不便ってわけじゃない。なくても、まぁ、生活にそんなに支障はないんだ。これはただの……。
「……」
しないで、行ってみよう……かな。
「って、もう本当に行かないとじゃんっ」
メガネない方が少しくらいマシかなって。
少しくらい。
「い……行ってきます」
義信さんに可愛いとかはないってわかってるけど、可愛いなんて思ってもらえるなんて思わないけど、でも、少しくらいはマシになれるかなって。
ちょっとでもあの人からよく見えたらって、そう思って、メガネを勉強机の上に置いた。
五月も半ば、日差しがあるとちょっと半袖でも暑くて。一日雨だと半袖では寒いくらい。どっちもあって、なんだか忙しない季節。
今日は傘の心配はないって、お天気予報でいってた。
「お、おはようございます」
「……おはよう」
アルバイトに来た時は「こんにちは」じゃなくて何時でもおはようって言うって教えてもらった。まだその時間帯にそぐわない挨拶に落ち着かないけれど。
「庭先の大きな花、すごいですね!」
「……あぁ、芍薬かな」
「シャクヤク……」
名前も知らなかった。その名前を忘れないようにと口に出して呟くと、義信さんが笑いながら、その芍薬が咲いている庭が見える窓へと視線を向ける。
昨日、蕾がすごくすごく膨らんでいたのは知っていた。でも、まだ咲いてはいなくて。きっと今日一日、溢れてしまいそうなくらいに降り注ぐ久しぶりの温かな日差しのお陰でパッと花が目を覚ましたように開いたんだ。
「綺麗だよね。好きな花なんだ。ここ、店を構える時に知り合いのグリーンプランナーに頼んだんだけど、芍薬は指定して入れてもらったくらい」
すごい、グリーンプランナーとか。
そっか。
だからお店の庭、すごい素敵なのか。
「……汰由?」
「あ、いえ……俺、ここ、毎日通ってたんですけど」
「うん」
「いつもお庭がすごいお家だなぁって思ってたんですよ。花とかたくさん常に咲いてて。グリーンプランナーみたいな人がいたらそりゃすごいに決まってますよね」
デザインされた庭は綺麗で、いつ来ても緑が溢れていて素敵な草花が咲いていた。中でも、この芍薬だけは特別大きくて特別綺麗で。
まるで作り物なんじゃないかってくらい。
まるで、本物の花じゃないみたい。
「そのおうちだと思ってたアルコイリスに義信さんがいて……なんかすごい不思議だなぁって。いつもここを通っていたのに」
「……」
「俺って間抜けだなぁって」
「汰由は……まるで芍薬みたいだ」
「……ぇ?」
びっくりしたら、義信さんが笑って、自分のこめかみを長い指で、トンって叩いた。
「今日はメガネしてないんだね」
「!」
「服も違うからかな」
「!」
「まるで別人みたいだよ」
そう言って笑ってもらえて。
「こ、この服、ありがとうございます」
「……どういたしまして」
声がひっくり返った。そのくらい、太陽の光をたくさん浴びすぎちゃったみたいに頬が熱くなって、上手に返事ができなかった。
メガネしてないのに、間抜けな僕はメガネの縁を持ち上げるように指で眉間に触れて、メガネがないことに慌てて。
また胸の内に、最近名前をつけたばかりの気持ちが踊り始める。
「っ」
義信さんが、好き。
そう名前をつけた気持ちが、踊った。
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