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第17話 「好き」
会いたくて、五時が待ち遠しい。
義信さんに会えるって思うだけで、大学からアルコイリスに向かう足取りが軽くなる。
でも、たくさん走ると髪がボサボサになるから、いつだって、アルコイリスの庭先が見えてきた辺りで一度止まって、髪を直すんだ。お母さんに似た真っ直ぐな黒髪を手櫛で直して、それから、一つ息を整えて。
走ったままの真っ赤な顔で行って笑われてしまわないように。そして――。
おはよう。大学、お疲れ様。
そう笑ってくれる義信さんに気持ちがふわりと舞い上がる。
それは、「好き」だから、でしょ?
こんな気持ち、なったことなかったから、よくわからないけれど、そうだからでしょう?
メガネをしていなことに気がついてもらえた。
服、似合ってるって言ってもらえた。
それだけでこんなに嬉しくなるのは。
今日が週末でいつもよりずっと長くここにいられるって思うだけで、飛び跳ねたくなるのは。
そうなんでしょう?
「今日は義信さんもなんかちょっと違う感じがします」
「そう? 今日は反対だったね」
「?」
「いつもは僕がラフな格好で、汰由がきっちりしている」
「俺のは、全然」
今日の義信さんはワイシャツ姿だった。いつもはニットとか長袖や七分袖のTシャツを着ていることが多くて。ラフだけれど、かっこよくて、だらしないとか微塵もなくて。ただただかっこよくて。
けれど、今日はワイシャツだから。
なんだか違う人みたい。
違う人、って言うのとは、違うかな。
雰囲気が違っていて。
「そのTシャツよく似合ってる」
ドキドキする。
「義信さんのワイシャツ姿もよく似合ってますよ」
「そう? 今日は仕事前に一つ用事があってね」
「そうだったんですか?」
「あんまり好きじゃないんだ、首、苦しくて」
「……っぷ」
本当に窮屈そうな顔をするからつい笑ってしまった。とてもかっこいいのに。
「子どもっぽいかな」
「いえ。そんなことはないです」
「でも、汰由、笑ってる」
「これは、はい……まぁ」
ドキドキする。
俺、こんな人と、一度だけ……。
なんて、もうこの人にしてみたら、たくさんいるうちの一人なんだろうけれど。すごく全部手慣れていたし、初めての俺をずっと、なんていうかリードしてくれたし。
あれは、あの晩は、きっと大人な義信さんにとっては、何も知らない無知な俺を手助けしただけのことで。
「ワイシャツ似合ってるなぁって思っただけで」
「……」
「俺よりずっと大人って」
もう一回したい、なんてことを言い出せないほど拙い俺の相手をあの晩だけ特別にしてくれただけのことで。
「……義信さん?」
もう一回、なんてこと、言い出せるわけ、ない。
「……あの」
誘ったって、きっと断られるに決まってる。
「義信さん?」
「いや、なんでもないよ。今日は早起きだったからかな。朝は苦手なんだ」
「そうなんですか?」
「いつもアラームは三つ」
「えぇぇ?」
「嘘だよ」
「え?」
恋人が起こしてくれる、とか?
でも、あの晩、恋人はいないって。
「アラームは四つ」
「えぇぇぇぇ? そんなにですか?」
そう言って笑う義信さんが本当にアラームを四つ使っていて、誰も、彼の寝顔を今は眺める人がいなかったら、いいなぁって。
「そうだ。ごめん。汰由。昨日の続きで品出しをお願いできるかな。今日はそんな用事のお陰で仕事が捗ってないんだ」
「あ、はいっ」
そんなことをこっそりと願ってしまった。
やっぱり土日はすごく忙しくて、最初に頼まれた品出しもあんまりできなくて。
「ごめん。遅くなっちゃったな」
義信さんのその言葉にふと腕時計の時間を見れば、閉店してからもう一時間も経ってしまっていた。
「あ、いえ、全然、品出し最後までしたかったの俺だし」
「助かったよ。ありがとう。汰由が品出しするととても綺麗だから」
「! い、いえ。不器用で」
「そんなことないよ。さすがだ」
義信さんはそう言って、使っていたタブレットから手を離した。
そろそろお仕事終了かな。明日も同じ時間だけど、少し早く来て、商品の発送手続きとか手伝いたいな。
地方に一店舗、支店みたいなのがあるって教えてくれた。
前にここで働いていた人がそっちに引っ越すことになって、それで倉庫兼実店舗として、経営をしてもらってるって。オンラインショップの方もその人が請け負っているとからしくて。インターネットはあんまり得意じゃないんだって義信さんが笑ってた。
明日はその支店の方に頼まれてた商品を発送しないといけないから。
だから、明日、少し早く来ちゃおう。
時間はシフトの通りで構わないから。
ただ俺が早く来て手伝いたいだけ。
「もう上がって大丈夫だよ」
「……はい。それじゃあ。お先に失礼します」
ただ俺が少しでも早く義信さんに会いたいだけ。
今日はもうここで帰らないとだから。
あっという間に終わっちゃうんだ。アルバイトとかしたことないけど、普通もそう言うものなのかな。
あーあ、終わっちゃった。
そう思いながら控室で鞄の中に置いてあったスマホを見た。
「……あ、晶からだ」
珍しく電話が入ってた。友達は多い方じゃない。晶くらいかな。頻繁に連絡を取るのは。でも電話が来てるのは珍しくて。
なんだろう。
とりあえず、連絡しとこう。
どうかしたって。
「……っと、ごめん」
「あ、いえ」
いつもは荷物を持って、もう一度、フロアにいる義信さんへ挨拶だけして帰るんだ。ダラダラしてたら、よくないから。
「電話、もしかして親御さんから?」
「あ、いえ、友達からです。なんだろ。珍しい」
義信さんはいつもよりも遅くなったことを心配した親からの電話、と思ったらしい。そうじゃないですって慌てて伝えて、スマホで晶に「どうかしたの?」って、メッセージを。
「……もし、まだ時間あるなら」
「……え?」
「もし、まだ時間大丈夫なら、夕飯、どう?」
「……」
どうかした、まで打って、あと「?」を、クエスチョンマークを押したら送信するところだった。
「いや、ごめん。何でもないよ。汰由にも予定が」
「ないです! ない! 全然ないです!」
送信、押さなくてよかった。
「予定、ないです!」
押したら、晶から連絡が来てしまうかもしれない。そしたらきっと義信さんは誘ってくれなかった。
だから、ギリギリ、セーフ。
ラッキー。
「そう? じゃあ、夕食」
「はい!」
ラッキーだ。
誘ってもらえて。
「元気だな。汰由は」
義信さんに笑って、もらえて。
今日はとてもラッキーだ。
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