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第23話 くるり、来る、くるり

「へぇ……ウインザーノットってこれなんだ……」  バックヤード、休憩室でそんな独り言をこぼした。  ちょっと読んでみようかなって。  買ってみたんだ。駅前にある本屋で。 「袖口はシャツが少し見えるくらい、か……へぇ知らなかった」  唯一持っているスーツは親が選んでくれたものだったから、そんなのも分からず、言われたままに着ていた。確かに、袖が少し出ていたような気がしなくもない……かな。多分……だけど。  徐に自分の今の手首をじっと見つめて、スーツを着てみると……って想像した。 「っ」  と、同時にもう一ヶ月以上前だけれど、やってしまった人生最大のピンチのことを思い出して、身体が自動的にキュッと恐縮して縮こまる。  本当、あの時は危なかった。  よっぽど切羽詰まっていたっていうか、少し、熱に浮かされてたっていうか。  でも、あれがなければ義信さんには出会わなくて。義信さんにあそこで出会ってなかったら、お店で雨宿りしても、すみませんって言って終わってたし。だから、まぁ、それは。よくはないけど。いいかもしれない。  あの時のネクタイの結び方。  ―― ウインザーノットのほうがバランスいいと思うよ?  そういって結んでくれた時の指、すごく素敵だった。 「……」  もうほぼ一目惚れ、だよね、なんて。 「…………じゃなくて! ファッション!」  スーツは、前にここでお仕事していたサトイ君っていう人に任せっきりだったから、少し困ってるんだって言ってた。スーツ系確かに義信さんはほとんど着てるところを見たことがない。初めてのあの時は場所がホテルだったし、打ち合わせとかそういうのだったんだろうし。そのあと、一回だけワイシャツ着ていたことはあったけど、それくらい。普段はラフでゆったりした服を着ていることが多い。  だから、勉強してみようかなって。  義信さんが苦手な部門のこと、俺が詳しくなったらさ、義信さんの役に立てるでしょ? センスはないからそんなに役立てるとこ、ないかもしれないけど。少しはね。 「えっと、他には……襟とのバランスで決めるんだ。あ、確かに、あの時も義信さんそんなようなこと言ってたっけ。へぇ、こんなにたくさんあるんだ」 「……何読んでるの?」 「! は、はっわあああああ!」 「あ、ごめん。おっと」  いきなり頭上から声がした。その事にまずびっくりして、振り返るところでまたびっくりして、そのまま椅子から転げ落ちそうになった。なったけど、落ちなかったのは義信さんが俺の腕をしっかり掴んでおいてくれたから。 「大丈夫?」 「い、いえ」  大丈夫じゃないよ。だって、今、夢中になって読んでたんだ。そしたらすぐ後ろで義信さんの声がしてさ。抱きしめるのと大差ない距離感、テーブルに手をついて、後ろからまるで抱きしめるみたいに俺へ覆い被さって。必死に読んでたから全然気が付かなかった。テーブルに置かれた義信さんの大きな手も、触れるギリギリのところにいた義信さん自身にも。  気がついてなかったから、キスしちゃいそうな距離だったし。  いつからそこにいたの。  俺、びっくりして。 「心臓がっ」 「? 心臓?」 「あ、い、いえっ! 大丈夫で、その、心臓も平気です!」  ちっとも気がついてなかったから、ど、しよ。頭、パニックになる。 「ごめんね。何を真剣に読んでるのかと思って」 「! あ、えっと、これは」 「……男の基本ファッション、完全版」  あ、ああああああ。音読しないで。義信さん。すっごく恥ずかしいよ。今更こんなの読んで勉強してるなんて、って感じでしょう? 「……これ」 「あ、あのっ、俺センスもないし、センスあればまだいいんでしょうけど……なので、基本的な知識くらいは知っておいた方がいいかなって」 「……」 「そ、それで義信さんの役に立てるかっていうと微妙ですけど」 「……」 「でもまだマシかなと……」 「ありがとう」 「!」  わ。 「その気持ちだけでも十分嬉しいよ」  すごい、笑いかけてもらった。  わ、ぁ。 「い、いえ、全然! あの、最初の、あの、あの時、あの時は本当にありがとうございましたっ、その時、あの、ネクタイ結んでもらって、その結び方も載ってたんです。ウインザーノットでしたよね? あの結び方、できるかな……不器用だから難しいけど、あ、でも、他にも色々スーツを着ることを考慮して袖の長さがあるとか、ジャケットのスタイルにも色々あって。へぇってなることばっかりで」 「こう……だよ」 「……」  あの時も、魔法のようだって思った。  長い指は迷うことなく近くにあった在庫のネクタイを持って、滑るように、踊るように俺の首元でネクタイをあっという間に結んでしまった。 「今日は、ちょうど、汰由がワイシャツにベストを着てるから似合うね」 「……ぁ」  今も、魔法みたい。  くるり、くるり。 「楽しそうに何を読んでるのかと思った」 「楽しそう、でした?」 「夢中だったから。どんな医学書なのかと思った」  くる、くるり。 「よ、義信さんみたいに上手には全然、千回くらい練習しないと」 「千回も?」 「はい」  その魔法の指先を目で追いかけたら、もう、落ちちゃうんだ。 「……」  恋に、落ちちゃう。 「本当に……汰由は……」  貴方の指先に、落ちちゃう。

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