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第32話 甘露事後

 俺はカラオケとか得意じゃないけど、俺たちみたいな大学生に遊べそうな場所なんてあんまりなくて。だから、晶と遊ぶとかってなると大体、カラオケかファミレスとかでおしゃべりか、あとは……映画? でも、あんまり映画も行かない、かな。  とにかくそんなカラオケにこの前行って、俺はその時、義信さんって歌うまそうだなぁって。  きっとあの低い声で歌われちゃったりしたら、ドキドキして仕方ないんだろうなって。  そう思った。  ほらね。  本当に、歌、上手いし。  声、やっぱり低くて、かっこいいし。  かっこいいけど、鼻歌をお風呂場に響かせる義信さんはなんだか、とても――。 「汰由のこの柔らかい髪質はお父さん似? お母さん似?」  あと、楽しそうで、なんか、俺は溶けちゃいそう。 「汰由?」 「お、お母さん似、ですっ」  肩をキュッと小さくしながら、質問に答えると、義信さんが濡れた俺の髪を指にくるりと巻きつけて、解いて、もう一度指で捉えてから、そっと頭にキスをした。 「お母さん似なのか」 「っ」 「借りてきた猫みたいだね。汰由」 「! だ、だだだだ、だって」  付き合ったことなんてない。  生まれてこの方誰とも付き合ったことなんてない。  けど、巷のカップルって一緒にお風呂入るの? なんで、蒸発して溶けちゃわないんだ。あ、いや、順番逆だ。溶けて、蒸発だ。蒸発したら溶けられない、じゃなくて、そんなのどっちでも良くて、良くないけど、良くて。 「真っ赤だ」 「!」 「恥ずかしい?」 「そ、そりゃっ」 「さっきあんなに恥ずかしいことをしたのに」 「っ、あ……ン」 「ここも、全部、僕に見せてくれた」 「……ぁ」  湯船がちゃぷんって音を立てた。  義信さんの手がお湯の中で、さっきまでとろとろになっていた孔を撫でたから。中にはまだ義信さんの指の太さも、奥までいっぱいになった時の熱の感触も残っている。だから、こうして撫でられると、奥がキュってしちゃう。 「恥ずかしがりな汰由も可愛い」 「!」 「あの夜は一緒に入れさせてもらえなかったから、念願が叶ったよ」  あの夜、初めての夜。  抱いてもらった後、一緒に入るよって言ってくれたのを断った。立てる? って心配してくれたこの人に迷惑かけちゃダメだし、それに恥ずかしくて。初めての人と、一緒にシャワーなんてさ。もうあの時、俺の頭は容量オーバーで、そんなことしたらショートしちゃいそうだったから。 「夢みたいだ」 「そんな」 「汰由」 「……ぁ、ン」  俺の、初めての人。  セックス、初めてした人。 「変、じゃなかったですか?」 「? 何が」 「お、俺、ちゃんと、可愛かった、ですか?」 「……」  目を丸くしてる。驚いてるの? でも、だって、貴方みたいにかっこいい人にはもっと可愛い人でも綺麗な人でもいくらでも。 「それ、今、僕は誘惑されてるの?」 「ち、違」  またお湯がちゃぷんって音がバスルームに響いた。 「あっ」  それから、指の侵入に溢れちゃった俺の甘ったるい小さな声も、響いた。 「あんまり可愛いことを言われると、寝かせてあげられなくなる」 「……ぁ、ン、だって、あぁ……ン」  指が入りたそうに孔のふちを撫でて遊ぶ。 「義信さん」 「うん」 「あの人、すごく可愛かった、から」 「?」 「だから、俺も、可愛く」 「……えっと、何か、あった?」 「あの、あの人、です。スーツの、可愛い」 「……」  常連のマダムが教えてくれた、スーツなのに可愛くて、ほっとけないっていうか、とにかく可愛い人。 「本当は一緒に働いて欲しかったけど、その、無理でって」 「……」 「俺、じゃ、敵わないし。それに、義信さんが大事そうに、その、してて。俺のこと、知られたくなさそうで」 「……」 「だから、俺」 「…………もしかして佳祐のこと?」  すごい、びっくり、してる。 「そ、かな……」 「あぁ」  深い、深い溜め息をついて、義信さんが濡れた髪を掻き上げた。 「あの」 「それは甥っ子の佳祐だよ」 「……え?」  甥っこ? 「歳の離れた姉がいて、その姉の子どもで」 「あの」 「知られたくなかったのは、汰由のことじゃなくて、佳祐の仕事というか、うちの家系というか」 「?」 「汰由はエリートっていうやつが苦手だろ?」  佳祐さんはとてもすごくて。政治家の個人秘書をしているんだって。第一秘書の人。そう言いながら困った顔してた。 「うちの家系はみんな、それなりのいわゆるエリートなんだ。僕だけ例外。でも、それで汰由が苦手だって、僕のことも思うんじゃないかって」  それで、あの時、隠したの? 「はぁ」 「そ、なんですか? 俺、てっきり、一夜の相手で、しかも、あんなバイトをしようとしてたようなのと一度でもしちゃったからって、それをあの人に知られたくないんだと」 「そんなわけないだろ? ずっと」  あの時、すごく必死にあの人のことを隠してた。  珍しく慌てて、その様子に俺は、勘違いをして。 「ずっと、汰由のことが好きだったんだから」 「……」 「君に逃げられないように必死だったのに」 「……ぁ」  そんなの、知らなかった。 「っ」  嬉しくてたまらない。  やっぱり溶けちゃいそう。 「とりあえず」  溶けて蒸発、しちゃいそう。 「汰由のことが可愛くて仕方ない」 「……ぁ」 「鼻歌を歌うくらいには」  本当に、歌、上手かった。声が低くてかっこよくて。お店ではいつだってどんな時でもおおらかで。英語もイタリア語も、それからフランス語だって話せるすごい人。  けれど、鼻歌を歌ったりもする。  大慌ての顔をしてみたり、道案内を笑っちゃうくらいの勘違いしちゃったりもする。そして――。 「ん」  すごく気持ちいいキスをしてくれる。 「汰由」 「あっ……ン」  嬉しそうに、俺にキスをしてくれる。 「誰より可愛いよ」 「ン」  かっこよくて、知的で、素敵で。 「ところで汰由」 「?」 「君がとても可愛いことを言うから」 「ぅ……ン」 「またしたくなった」 「あっ」 「あとで、二回目のシャワーも手伝うから、一度、ベッドに戻ろうか」 「あ」  そして、とろけてしまいそうなほど。 「うん」  可愛い人が、俺の、初めての人。

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