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第57話 背よ。

 いつからだったかな。  自分のことを言えなくなっちゃったのって。  着たい服、食べたいもの、見たい映画、やりたいこと。自分のしたいことをしちゃいけないことのように思ってたのって、いつからだったんだろう。  わからないくらいにいつの間にかそうなってて。  気が付かないくらいに小さなそういうものが積み重なっていって。  気がついたら、自分のしたいことが消えちゃって、残っていたのは、してほしいと「思われてること」だけだった。  ずっと親がなって欲しいんだろう「子ども」じゃなくちゃって思ってたんだ。 「? 汰由? どうかした?」  今日の講義は全部終わり。今日はアルコイリスでやり途中になってることってあるんだ。昨日お店は定休日だったからそのままになってるはず。  なんだか、最近、とにかく早く帰らないと行けないって感じだったから。帰り慌ただしくなっちゃって中途半端なんだ。 「どうって?」 「うーん、なんとなく」 「ううん。何にもないよ」 「そう?」 「うん」  そろそろ七月だもん。夏物の品出し頑張らなくちゃいけないでしょ。 「何にもないよ」  不思議そうな顔をした晶ににこって笑って、鞄を肩にかけた。  走って行こうっと。  早く義信さんに会いたいから。  ――今日はアルバイトでしょう。  アルコイリスでのお仕事も楽しんだ。  ――うん。お母さん、今日、ご飯いらない、です。外で食べてきます。  常連さんと話をするのが楽しくなってきて。海外にも行ったことがある人なんだけど、いろんな話をしてくれて、海外なんて行ったことないけど、ちょっと行ってみたいとか思ってみたりもして。  ――そう、いってらっしゃい。  元気に行ってきますって言ったら、笑ってた。今までは……どうしてたんだろう。どんな顔で見送ってくれてたんだろう。  そこで気がついたんだ。  俺、ちゃんと顔を見て挨拶もしてなかったんだって。  それじゃあ、心配になっちゃうよ。挨拶するのに顔も見ずに「行ってきます」なんて言われたら、お母さん、大丈夫かなって、思うよ。 「おはようございます!」 「……おはよう」  顔を上げて。  今日も貴方と貴方のお店で過ごす時間を楽しみにしていたから。  ――たくさん笑うことのできる人?  俺が裏口から入ると、義信さんが時計の方へと向けていた顔をこっちへ向けて、にっこりと優しく笑ってくれる。  ――汰由が一緒にいて、たくさん笑える人?  その笑顔に気持ちがふわりと和らいで、つい、笑顔になるよ。口元がきゅっと、勝手に持ち上がっちゃう。 「まぁ、今日はとびきり元気ね」 「いらっしゃいませ」  お店には常連さんの女性もいた。俺を見つけて、彼女も笑ってくれる。キュって、唇の端を釣り上げて。 「こんにちは。ね、汰由君、夏にピッタリの帽子ってないかしら」 「帽子、ですか?」  目を見て。 「あ! ある、かもです。義信さん!」 「?」 「今日、俺、品出しを」  品出ししようと思ってたんだ。 「あぁ、そうだね」 「ちょっと行って来ますねっ」  夏用の小物たち。その中にハットもあったはず。思いつけたことが嬉しくて、小さく、気持ちだけじゃなくて、ちょっとだけ一歩を弾ませながら、今、自分の荷物を置いてきたばかりの控室兼バックヤードに戻った。 「えっと」  箱の中になかったかな。記憶ではあるはず、だったよね? 「あっ!」  ほら、ここのところ頭の中が悩み事っていうか、青空を覆ってしまう灰色の雨雲みたいなモヤモヤでいっぱいだったから箱、高いところに置いたままだった。いつもなら、ちゃんと取り出しやすいように下ろしておくのに。 「んーっ」  背よ。今だけ、義信さんくらいまで伸びてくれ。 「んんーっ」  爪先立ちで指をめいっぱい伸ばした。 「取るよ」 「!」  けれど届いたのは俺の指先じゃなくて、それよりずっと高いところから簡単に取ることができちゃう義信さんの手で。 「あ、ありがとうございます」 「……どういたしまして」 「あ、あの、お店っ」 「大丈夫、マダムが店員さんをしてくれてる。僕と汰由が素敵なハットを持って戻ることを条件に」  背、高い。  背伸びすることなく手が届いて、軽々と持ち上げて。商品がたくさん入ってる箱を落としてしまわないようにと力を込めるその腕の筋っぽい感じにすら、キュって気持ちが蝶々結びみたいに締め付けられる。  たったこれだけのことでもドキドキして仕方がないんだ。ね? 俺、きっと真っ赤でしょう? 「今日はいつもの可愛い汰由だ」 「! あのっ、も、大丈夫、ですっ!」 「……」  もうちゃんとしたんです。親に、承諾っていうか、なんていうか。とにかく俺が一人で引け目を感じて、隠す癖がついちゃってただけだったって、今、わかって。なので、もう。 「だから、今日、ご飯、一緒にしませんか」  もう、付き合ってる人がいるって言ったから。 「ご飯、一緒に食べたい……」  懇願するように。ねだるように。柔らかいサマーニットの服をちょんって指先で摘んで、伸びてしまわないように気をつけながら僅かに引っ張った。 「もちろん……誘ってもらえて光栄だ」 「光栄だなんて……」 「見えない?」 「?」  何が? って首を傾げた。 「君からデートに誘ってもらえて嬉しすぎて、飛んで行きそうなくらい尻尾を振ってるのが」 「っぷ、見えませんよ」 「おかしいな……笑えるくらいに振り回してるのに」  ……あ。 「……汰由」  やった。 「は、ぃ」  もらえる。 「……ん」  キスしてもらえる。  そう思って、棚と義信さんの間に目を閉じて、少しだけ見上げる。  見上げて、触れた唇の柔らかさと、壊れないようにとそっと触れるようなキスに、心から指の先まで嬉しさと心地よさがいっぱいになった。 「そんな可愛い顔を今しないように」 「……だって」  あ、もう唇、離れちゃった。 「キス、もっとして、欲し……ぃ」  だから、一瞬でいいの。  神様。  ―― 背よ。今だけ、義信さんくらいまで伸びてくれ。  そうさっき願ったけれど、あのね。 「もう一回だけ…………ン、ん」  さっき、あの時だけでいいのは。こうしてキスする時、義信さんに抱えてもらうように腕の中へ連れていってもらえるのがたまらなく好きだから。 「……ん」  たまらなく、幸せだから。  そして、とろけるようなキスをもらってからお店に戻ると、マダムが、あらまだアルバイトしていたかったのに、そう笑っていた。俺も笑って。そしたら義信さんも笑って。  ――汰由が一緒にいて、たくさん笑える人?  アルコイリスが笑顔で溢れた。

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