22 / 61

22.*****

 急ぎ早に店から離れる。せめて、人通りの多い所へ早く····。 「先生、待ってよ。なんか急いでんの?」  芯が僕の手を引いて止める。立ち止まりたくないのだが、振り払うわけにもいかない。それに、いくら人通りがないからと言って、堂々と“先生”はいただけない。 「ねぇ芯、外で先生って呼ぶのは──」 「あれ~? やーっぱお前だ」  背後から耳を劈く、聞き慣れた甘い声。身体が強ばり、瞬く間に自由を失う。頭から足先へと血の気が引き、焦点が定まらない。  けれど、それを芯に悟られてはいけない。僕は、震える唇を噛み締めて振り向いた。 「か、奏斗(かなと)··さん····」  震える声で、かつて愛したその名を呼ぶ。もう二度と、死んでも会いたくなかった男だ。 「久しぶりぃ。そのちっこいの、彼氏?」 「あ····えっと、その····」  恋人と言ってしまって良いのだろうか。反発した芯が、余計な事を言ってしまえば終わりだ。  奏斗さんは、1歩1歩ゆっくりと歩み寄ってくる。目の前まで来ると、少し前屈みになり僕の耳元で囁く。 「俺とは正反対じゃん。可愛い、お前みたい」  耳を孕ませる低い声。脳を溶かしてしまう濃い雄の匂い。頭が痺れ、考えが纏まらない。  ちらりと芯を見ると、唇を尖らせている。あぁ、やはり機嫌が悪い。最悪だ。 「アンタ何? 鬼無(きなし)さんの元カレ?」  どうして会話を始めてしまうんだ。できれば、適当にあしらってこの場を去りたいのに。  けれど、“先生”と呼ばなかった事は後で褒めてあげよう。 「そだよ。君は? 随分若いねぇ」  勘のいい奏斗さんの事だ。何かを察しているに違いない。何とか誤魔化さなくては。けれど、上手く声を出せない。 「俺? 彼氏。20歳になったばっかなの。おっさんから見りゃ若ぇだろ。中坊にはおっさん呼ばわりされっけどな」  芯だって、状況を察する能力には長けている。挑発に乗っただけだろうが、恋人と言ってくれたことには感激だ。  上手く(かわ)してくれているのもありがたい。しかし、ペラペラと減らない口だ。 「ふぅ~ん。ま、何でもいいけど。なぁ、コイツ····イイだろ」  奏斗さんは、僕の頭に手を乗せ、ぐりぐりと撫で回す。薄いコートの袖口を握り締め、このまま時が止まるよう願った。  お願いだから、それ以上何も言わないでくれ。そう願う事しかできない。 「あ? あぁ、まぁね」  お願いだから、もう帰ってくれ。芯にこれ以上何も知られたくない。  僕は、一縷の望みを芯に託す。 「奏斗さん、僕たちもう····」 「あ~、ごめんごめん」 「ったく、大人だったら気ぃ使えよな。ほら、行くぞ」  芯が僕の肩を抱いて、奏斗さんから奪い返してくれた。安堵して、小さな溜め息が漏れる。  しかし、それを見逃す奏斗さんではなかった。 「ごめんね~。久しぶりに会ったからさぁ、また躾たくなっちゃって····ねぇ、(れい)」  背筋を電撃が貫いた。膝に力が入らない。ガクンと崩れ落ち、地面に手を突いた。どんどん呼吸が浅くなってゆく。  芯が慌てて僕に寄り添ってくれるが、どうにも声が聞こえない。幸い、裏通りなので衆目に晒されてはないが、それも時間の問題だ。早く、この状況をどうにかしなければ。  焦りでさらに、呼吸が上手くできなくなってゆく。芯の手を借りて、何とか立ち上がろうとしたその時だった。 「お前、名前呼ばれんのまだダメなの?」  奏斗さんが、僕の脇を抱えて立たせてくれた。  僕より少し背の低い芯は、必然的に僕達を見上げる。その瞳には、僕がどう映っているのだろうか。 「なんだそれ。つぅか躾けるって何? なぁセ····鬼無さん、そいつホントに元カレ?」  ごめんね、芯。いつかは話そうと思っていたんだ。けれど、今はまだ、芯が僕を愛していないうちは、知られたくなかった。 「俺はねぇ、コイツを躾けた男だよ。コイツ、名器だろ? ぜーんぶ、俺が仕込んだの。まぁ、別れる時のトラウマは俺のミスだけど」  あぁ····、終わってしまう。  ようやく、手に入れたいものを見つけられたのに。また、この手からすり抜けていくんだ。

ともだちにシェアしよう!