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22.*****
急ぎ早に店から離れる。せめて、人通りの多い所へ、早く····。
「先生、待ってよ。なんか急いでんの?」
芯が僕の手を引いて止める。立ち止まりたくないのだが、振り払うわけにもいかない。それよりも、いくら人通りがないからと言って、堂々と“先生”はいただけない。
「ねぇ芯、外でそ う 呼ぶのは──」
「あれ~? やーっぱお前だ」
背後から耳を劈く、聞き慣れた甘い声。身体が強ばり、瞬く間に自由を失う。頭から足先へと血の気が引き、焦点が定まらない。
けれど、それを芯に悟られてはいけない。僕は、震える唇を噛み締めて振り向いた。
「か、奏斗 さん····」
震える声で、かつて愛したその名を呼ぶ。もう二度と、死んでも会いたくなかった男だ。
「久しぶりぃ。そのちっこいの、彼氏?」
「お··お久しぶり、です。あ····えっと、その····」
恋人と言ってしまって良いのだろうか。反発した芯が、余計な事を言ってしまえば終わりだ。
奏斗さんは、一歩一歩ゆっくりと歩み寄ってくる。目の前まで来ると、少し前屈みになり僕の耳元で囁く。
「俺とは正反対じゃん。可愛いね、お前みたい」
耳を孕ませる低い声。脳を溶かしてしまう濃い雄の匂い。頭が痺れ思考が乱れる。
ちらりと芯を見ると、唇を尖らせている。あぁ、やはり機嫌が悪い。最悪だ。
「アンタ何? 鬼無 さんの元カレ?」
どうして会話を始めてしまうんだ。できれば、適当にあしらってこの場を去りたいのに。
けれど、流石は空気を読める芯。僕を“先生”と呼ばなかった事は、後でしっかり褒めてあげよう。
「そだよ。君は? 随分若いねぇ」
勘のいい奏斗さんの事だ。何かを察しているに違いない。何とか誤魔化さなくては。けれど、上手く声を出せない。
「俺? 彼氏だけど何? 20歳になったばっかなの。おっさんから見りゃ若ぇだろ。俺でも中坊にはおっさん呼ばわりされっけどな」
芯だって、状況を察する能力には長けている。挑発に乗っただけだろうが、恋人と言ってくれたことには感激だ。
上手く躱 してくれているのもありがたい。しかし、ペラペラと減らない口には肝を冷やされる。
「ふぅ~ん。ま、何でもいいけど。なぁ、コイツ····イイだろ」
奏斗さんは、僕の頭に手を乗せぐりぐりと撫で回す。薄いコートの袖口を握り締め、このまま時が止まるよう願った。
お願いだから、それ以上何も言わないで。そう願う事しかできない。
「あ? あぁ、まぁね」
お願いだから、もう帰してくれ。芯にこれ以上何も知られたくないのだ。
僕は、一縷の望みを芯に託す。
「奏斗さん、僕たち、その、もう····」
「あ~、ごめんごめん」
「ったく、大人だったら気ぃ遣えよな。ほら、行くぞ」
芯が僕の手を引いて、奏斗さんから奪い返してくれた。安堵して、小さな溜め息が漏れる。
しかし、それを見逃す奏斗さんではなかった。
「ごめんね~。久しぶりに会ったからさぁ、また躾たくなっちゃって····ねぇ、零 」
背筋を電撃が貫いた。膝に力が入らない。ガクンと崩れ落ち、地面に手を突く。血の気が引いていき、体温が下がる感覚に恐怖する。そして、どんどん呼吸が浅くなってゆく。
芯が慌てて僕に寄り添ってくれるが、どうにも声が聞こえない。幸い、裏通りなので衆目に晒されてはないが、それも時間の問題だ。早く、この状況をどうにかしなければ。
焦りでさらに、呼吸が上手くできなくなっていく。芯の手を借りて、何とか立ち上がろうとしたその時だった。
「お前、名前呼ばれんのまだダメなの?」
奏斗さんが、僕の脇を抱えて立たせてくれた。
僕より少し背の低い芯は、必然的に僕達を見上げる。その瞳には、僕がどう映っているのだろうか。
「なんだそれ。つぅか躾けるって何? なぁセ··鬼無さん、そいつホントに元カレ?」
ごめんね、芯。いつかは話そうと思っていたんだ。けれど、今はまだ、芯が僕を愛していないうちは、知られたくなかった。
こんな僕を知ってしまえば、始まる前に終わるのは目に見えていたから。
「俺はねぇ、コイツを躾けた男だよ。コイツ、名器だろ? ぜーんぶ、俺が仕込んだの。まぁ、別れる時のトラウマは俺のミスだけど」
あぁ····、終わってしまう。
ようやく、手に入れたいものを見つけられたのに。
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