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38.*****

 事件から一夜。まだ頭がぼーっとする。昨夜の記憶がかなり曖昧だ。  芯に『好き』だと言われた気がするけれど、都合のいい夢だったのだろうか。あんな事の後なのだ。僕自身が捏造した記憶という可能性は非常に高い。  むしろ、嫌われていないのだろうか。真実を確かめてしまうのが怖い。どうして芯は、まだこの部屋に居てくれるのだろう。  起きたら、芯が僕の胸に抱きついて眠っていた。薄ぼんやりと、手を繋いでベッドに入ったのは覚えている。何か話をした気がするが思い出せない。  朝食を用意しておこうと、そっとベッドを抜け出したが起こしてしまった。目を擦りながら、『腹減った····』と呟く芯。安定の可愛さだ。生まれたままの姿だった芯に、僕のシャツを着せる。  ポケッとしたまま食卓に着かせ、袖口を捲ってあげた。芯は、まだ開ききらない目を懸命に開き、バターをたっぷり塗ったトーストに小さな口で齧りつく。『美味(うめ)ぇ』と一言漏らし、あっという間に平らげた。  僕達は、奏斗さんについて話をする。殆ど、芯が語る奏斗さんの愚痴を聞いているだけで、対策を練るなど無意味な話はしない。僕の失態についても、一切触れずにいてくれた。  ただ、僕が奏斗さんを招き入れないよう努力はしろと言われてしまった。勿論そのつもりだが、自信はないと先に謝る。芯は、呆れた顔で『期待してねぇけど』と言った。 「芯は、身体大丈夫なの? お尻痛くない?」 「身体はまぁ、普段からハードなセックスで慣れてっから余裕。てかケツは昨日薬塗ってくれたじゃん」  嫌味混じりに返される。だが、薬を塗った記憶はない。 「もしかして先生、夕べの事あんま覚えてねぇの?」 「あ··うん。ごめん。断片的には思い出せるんだけど」  何故だか、芯は少しホッとしたような表情を見せた。何かあったのかと聞いたが、何もないの一点張りだ。薬でおかしくなってたのだから、思い出さなくていいと言われた。という事はつまり、僕には言えない何かがあったのだろ。  やはり、あれは夢だったのだろう。芯が僕を好きだと言うはずがない。ましてや、あんな失態を見せてしまった直後に有り得ない。  もしも、あの夢が現実だったとしてもだ。今言いたがらないと言う事は、なかった事にしたいという意思表示に相違ない。これは聞かないほが賢明だろう。  芯の何気ない仕草や表情、もはや息をしている姿を見ていると、愛おしさが込み上げ虐めたくなる。  けれど、やはり抱くのは難しいだろう。どんな顔をして、どんな風に抱けばいいのか分からない。  芯曰く、奏斗さんが帰ってから風呂には入ったらしい。一緒に入ったが、お清めセックスはまだとの事だ。尚の事、芯への態度に迷う。  いつもの軽口で『今からする?』と聞いてくれたが、戸惑ってしまった。申し訳ないやら情けないやら、芯と目を合わせられない。精神が脆弱なのは、芯よりも僕のほうだ。  僕がオドオドしていたからなのか、芯が気を遣って色々と話を聞いてくれる。僕に興味があったのかと、今更ながら驚いた。 「俺さ、先生の事なんも知らなかったんだな····。あと先生さぁ、なんで奏斗サンに名前呼ばれんのダメなの?」 「それは····、えーっと──」  あれは、奏斗さんが大学を卒業する少し前。僕は、ある実験的な事をされていた。あれはおそらく、一種の催眠なのだろう。  奏斗さんにとっては、面白半分の戯れだったのだと思う。それによって僕が苦しめば苦しむほど、奏斗は恍惚に表情を歪め愛を囁いてくれた。  だから僕は、奏斗の期待に応えたくて、どれだけ痛くとも怖くとも苦しくとも耐えていた。  それは決まって、犯し潰され意識が朦朧としている中で行われた。“名前を呼ばれると呼吸の仕方を忘れる”みたいな事を言われていたと思う。そして、弄ぶように僕の名前を呼んでは、息ができず苦しむ姿を見て愉しんでいた。  当然、これには解除方法もあった。キスをすれば解除されるように、()()していたらしい。何度もされた結果、このシステムが身体に染みつき、行為の時以外でも名前を呼ばれると呼吸がし辛くなった。  極めつけは最後の時。卒業前日の事。いつも通り呼び出され、いつもより酷く激しく抱き潰された後。  失神寸前だった僕の前髪を掴んで持ち上げ、ドスを聞かせた声でこう言った。 『俺を失望させないでよ、零』  正直、言葉の真意が分からなかった。意識は朦朧としていたし、僕が奏斗さんを失望させてしまったのだと、思考は停止して怯えることしかできなかった。  それに、名前を呼ばれた所為で呼吸ができなくなっていて、何も返事ができなかった。この頃には、催眠をかけられていなくても、瞬間的に酷い呼吸困難に陥るようになっていた。  奏斗さんは、そんな僕に乱暴なキスをひとつ置いて、何も言わずに部屋を出ていった。扉の隙間から見えた僕を見下ろすあの冷たい瞳が、表情を落とした暗い横顔が、今でも脳裏に焼き付いている。  カチャンと静かに閉まった扉を見つめ、僕は涙を落としながら生にしがみついていた。けれど、喘鳴が脳内に響く中、僕は呼吸よりも去った奏斗さんに意識を向けたまま意識を失った。  目が覚めると、何もない荒れた部屋で独り、痣と傷だらけの身体に痛みを感じた。生きているのだと実感したが、感謝も安堵もすることはなかった。  それが、僕達の最後だった。あの時『待って』と言えていたら、何かが変わっていたのだろうか。

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