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39.*****

 あれ以来、人に名前を呼ばれるのが苦手になった。奏斗さん以外に呼ばれても、過剰に反応してしまう。好意を抱いて寄ってくる人からは特に。  けれど、名前を呼ばれる事などまずない。誰にも関心を持てなかったのだから、他人と深い関係になる事は一度もなかった。  言い寄ってくる人から、気安く“零くん”と呼ばれた事はあったが、僕の状態を見るなり去っていった。呼び捨てではない分、症状は軽かったようだけれど。  取り留めて名前を呼んでほしいと思った事もなかったので、これまで特に困る事はなかった。芯に呼ばれたいと思ってしまった、あの時までは。  僕の話を聞き終えた芯は、一瞬表情を落とし顔を伏せた。が、パッと顔を上げしれっとした顔を見せると、いつもの軽い調子で言った。 「んじゃ、俺が咄嗟にキスしたの正解だったんだ」 「うん。あれはラッキーだった」 「え、軽ぅ··。そんなんでよく俺に名前呼べとか言ったよな。死ぬ気じゃんか」  いつまでも“先生”としか呼んでくれない芯が、僕を名前で呼ぶ。それが関係の進んだ証明になると、愛の証になると思ったから。  年甲斐もなく浅はかだった。けれど、この感情に溺れ始めたあの時の僕は、ガラにもなく浪漫に溺れたかったのかもしれない。  しかし、芯の身体だけでは飽き足らず、心まで堕としたくなったのだから、それは至って必然的な衝動だった。今思えば、まともな思考回路ではなかったと思うけれど。  言い訳がましいうえに直感という曖昧な判断ではあるが、芯になら名前を呼ばれても大丈夫な気がしたのだ。だって、名前を呼ばれたいと思ったのなんて初めてだったから。僕自身が望んだ事なのだから。  無論、リスクを考えれば怖くないわけではなかった。だが、あの時の僕は毎日不安に押し潰されそうで、芯に想われている(自信)がどうしても欲しかったのだ。  僕がどれだけの想いや思考を巡らせようが、芯はまだ名前を呼ぶつもりはないらしい。仮初(かりそめ)の恋人だからだろうか。  いや、あんな失態を見てなお、僕から離れなかっただけでも御の字だ。これからまた、好いてもらえるように頑張らなくては。けれど、もう身体で縛るのは違うと分かった。  今度は心を通わせるように、ゼロから芯との関係を築いてゆく。僕は、自分勝手に固く誓った。  新たな決意を胸に、僕はテーブルの下で小さく拳を握りしめる。その直後、芯が爆弾発言を投下してきた。 「あのさ····、奏斗サン、先生と別れたつもりじゃなかったみたいだよ」 「····え?」 「先生が失神してる時に聞いたんだけどさ、アイツ、先生を捨てたんじゃなくて、先生が離れてったとか言ってた」  そんなはずはない。あの後どれだけ待っても、一度も連絡はなかったのだ。僕から離れただなんて、全く意味が分からない。  まさか、僕からの連絡を待っていたとでも言うのだろうか。いや、それは考えられない。  初めに言われたのだ。必要な時にだけ呼ぶから、それ以外は一切連絡をしてくるな、と。だから、呼び出されるのが常だった。そして、こちらの都合など聞かずに電話を切ってしまうのも。  そんな僕達の関係上、僕から離れるなんて事は有り得ないのだ。奏斗さんが、何を根拠に言っているのかは分からない。  しかし、今更そんな事実が判明したところで、何かが変わるわけではない。今、僕の心を占めているのは芯なのだから。    正直、過去はもう捨て去りたい。だから、二度と奏斗さんに関わりたくないのだ。到底、叶わない願いだろうけれど。  丸1日身体を休め、互いにある程度調子を整えた。だからと言って、やはりまだ芯を抱く気にはなれなかった。  しかし、芯は身体が疼くのだろう。毎日可愛がっていたのだから、シない日は身体が熱を帯び感覚が鋭敏になるようだ。  絆の深め方を根本から見直す。そう決めたが、性癖や嗜好が突然変わるわけではない。  僕は純粋に、芯を甚振(いたぶ)るのが好きらしい。苦痛に歪み、ぐしゃぐしゃになった芯の表情(かお)に興奮する。  そこにきっと、奏斗さんとの事は関係ない。僕自身の、持って生まれた変質的な部分なのだろう。そう思いたいだけかもしれないが。  芯は決して出掛けようとは言わない。リスクを理解しているからだろう。僕の為なのか、はたまた自分の為なのかは定かでない。  けれど、暗がりが僕達を隠してくれるならと、夕飯を食べに行く約束をした。また、肉を食べたいらしい。子供らしい無邪気な笑顔を見せられては断れない。  だが、今度はもっと遠くの店へ連れて行こう。万が一にも、奏斗さんと鉢合わせる事のない所へ。  僕達は、静かに日曜の昼下がりを過ごしていた。少しだけ、僕と芯の距離が近いのは、きっと芯が発情しているからだろう。  僕を気遣い、抱いてほしいとは言わない芯。いつも通りのふてぶてしい態度で、現代っ子らしくずっとスマホを弄っている。  けれど、時々僕を盗み見ている事に気づかないわけがない。欲望に耐えきれず、僕を求めてくるのも時間の問題だ。  そういう風に躾てきたのだ。僕と居て、欲情しないなんて有り得ない。それなのに、自分でそう躾ておいて勝手だが、これまで通り抱いてあげられるのか不安で堪らない。  夕方、僕はレンタカーを借り、かなり遠くの街に芯を連れて行った。流石にここなら、奏斗さんと鉢合わせる事もないだろう。  誰も僕達を知らない街。それをいい事に、夜の闇に紛れ芯が手を繋いできた。  驚いた僕は、『こら』と言いかけて飲み込んだ。リスクを投げ捨てたわけではない。怯える心は密かに震えている。  けれど、今ここでだけ、恋人になった僕達の甘さを満喫したってバチは当たらないのじゃないか。そう、気持ちが緩んでしまった。  駐車場から、裏路地にある隠れ家のような焼肉屋まで、僕達は手を繋いで歩く。

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