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第2話 ブルーアワー

ギシ、とベッドが音を立てる。 希響さんの抱き方はいつだって優しい。 コンプレックスを隠すためのマスクを外されて、割れ物に触れるような手つきで俺の頬を撫でる。 慈しみがこめられているのを感じる。 大事にしてもらっている。 ただのセフレなのに。 目を伏せた時ちょっと似てるんだよな。 頭の端に追いやったって、考えずにはいられない。 これがあいつだったらどうだった? あのあほ面を真剣そうに引き締めて、俺を見下ろすのかな。 あの大きい手で頬を撫でて、名前を呼んでくれる? 俺とあいつが付き合える可能性がある世界線ってどこよ。 肌に手を滑らせて、指を絡めて、キスをして。 好きって言ったら、俺もって返してくれる。 それで、それから。 「音彦くん……。」 目元を拭われて、自分が涙を流していることに気が付く。 バッと、横たえていた体を慌てて起こした。 うわ、馬鹿。 分かってんのに何で、あんな。 あんな幸せな想像しちゃだめだって。 死ぬほど今までも諫めてきただろ。 あいつが俺を抱くなんて、一生あり得ないのに。 惨めでばかばかしくて自分のことを否定したくなるのに。 「何でもない。」 「ねぇ。」 「何でもないってば。こんなの。」 慌ててシャツの袖で目を擦る。 声が震えないように、嗚咽が漏れないように歯を食いしばった。 どうにもならないこのぽっかりと開いてしまった心の穴。 ここにいたはずの彼はもう、元には戻らない。 俺のじゃなかった。 誰のものでもなかったあの。 たまにする喧嘩も屈託のない笑顔も気が抜けるようなくだらない冗談も。 全部友だちとしてだった。 俺が本当に欲しくてたまらなかったものは、声も名前も知らない彼女に渡ってしまった。 「……っ。」 自棄になって、はだけたシャツを完全に脱ぎ捨てる。 それを見て希響さんは慌てたように俺を止めようとする。 「ねぇ音彦くん、やっぱり今日はやめよ?俺、」 「っやめろよ!そ、そういうの!同情とか、いらねーんだよ! 俺はっ、今は何にも考えたくないんだよ! 分かってホテル来たんじゃねぇのかよ!」 肩に添えられた手を乱暴に振り払って、勢い任せに嗚咽で途切れながらも、叫ぶように訴える。 自分のこと好きな相手に、失恋したからって当たり散らして最低。 めちゃくちゃに抱かれて、記憶も理性もドロドロになって。 一瞬でもあいつのこと考えられなくなりたい。 「でも、音彦くん、その人と俺を重ねて見ているじゃん。」 「うるせーな!そんなの今さらじゃん!分かってたくせに! いいから、黙って俺のこと、いつもみたいに抱けよ!」 「っ!」 希響さんを力任せに押し倒して、その上に馬乗りになる。 彼の額に俺の涙が落ちる。 もう、それを拭うとかそんな余裕はなかった。 胸が痛い。 瘡蓋が剥がれて大きな傷からだらだらと血が流れているような。 嗚咽を漏らして、鼻を啜りながら、希響さんの服のボタンに手をかける。 手が震えて、うまく外せない。 それにまた、腹が立って涙がボロボロと零れる。 「音彦くん、ストップ。」 抵抗しようと俺の手を掴む、希響さんの呼びかけも無視する。 なんでもいいから早く。 脱がすことをあきらめた俺は、そのまま彼の下肢の間に顔を埋める。 「ちょ、ちょっと!待てってば!」 バックルのぶつかる金属音を聞きながら、ベルトを抜き去る。 泣いてぐずぐずの顔のまま、希響さんのそれを口に突っ込もうと下着に手をかけたとき、 グッと強い力で肩を押された。 「い、いかげんにしろって!!」 柔らかな冷たいシーツに倒れこんだ。 俺はそのまま頭を抱えるようにうずくまる。 食いしばった歯の隙間から、呻きに似た嗚咽が出た。 白い布が温かい涙で濡れていく。 しゃくりを繰り返して震える俺を、希響さんがゆっくり抱き起こした。 じたばたと暴れるのをあやすように肩を撫でて、「しー」と人差し指を口に当てられる。 「よしよし。」 この人、やっぱりお人好しだ。 身代わりにされることに怒るわけでもなく。 震える唇を熱い涙が濡らして、それをいちいち彼が拭ってくれる。 前が見えないくらい涙が溢れる。 誰のものでもないお前が好きだったのに。 片想いをしていても、罪悪感が無くて済んだから。 自由なお前が好きだった。 機嫌が悪くても話せばいつの間にか楽しい気分にさせてくれた。 渡貫と話してる時は、捻くれた自分がちょっと好きになれた。 なのに、こっちの気持ちなんて知りもしないで。 好きなアイドルの曲を無理やり聞かせてきたり。 こっちは、お前と色んな話したいからって興味ないそのグループの曲片っ端から聞いたってのに。 なんだよ、卒業した途端、離れ離れになった途端彼女って。 意味わかんねーし。 「……俺の方が、ずっと先に、……っ好きだったし。」 希響さんの胸元に顔を押し付けて、駄々を捏ねる子どもみたいに泣いてしまう。 その間、彼は黙って俺の背中を優しく擦ってくれていた。 * 「……シたいんだけど。」 「しません。」 「なんで。」 「泣いてる人とする趣味はありません。」 小学生に言い聞かせるような声音で希響さんは言う。 彼の肩に頬をつけて、呼吸を整える。 ぐったり力が抜けた俺は完全に希響さんにもたれかかった。 シャツが俺の涙でぐちゃぐちゃになってしまっている。 「あーごめん。シャツが…。」 まだ涙声だけどだいぶ落ち着いてきた。 悲しいことには変わりないけど。 涙の乾いた跡がちょっとだけ突っ張って痛い。 俺の様子を確認して、背中を往復していた希響さんの手が止まる。 顔を覗き込んでくるから、俯いて彼を押す。 「泣き止んだ?」 「泣いて、ないし。」 「無理があるでしょ、それは。」 くぐもった笑い声。 振動が伝わって心地よくて、また目の奥が熱くなる。 こういう人を好きになれたらよかったのに。 相手の好意につけこんで甘えるって本当に最低。 独りが怖くて、自分のことを拒否しないって知ってる相手を選んで、感情をぶつけて一人だけスッキリするとか。 このままだともっと自分のことが嫌いになりそう。

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