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第5話 夕月夜
歌声が聞こえる。
掠れ気味に耳に届くメロディーが心地いい。
ゆらゆらと波に揺られてそのまま眠りの底に引きずり込まれていく。
(……誰だっけ。)
夢か現かも分からない。
でも目を瞑っているんだから、これはきっと夢だ。
優しい声に耳を傾けて微睡んだ。
ふわっと意識が遠のいていく。
胸がいっぱい満たされるような幸福感に包まれている気がした。
*
空腹で目が覚めれば、時計の針はとっくに正午を超えていた。
仄かに漂うカップラーメンの匂いに、ふと彼の存在を思い出す。
(さすがに帰ってるよな。)
起き上がって見渡せば、案の定先輩の姿はなかった。
なんだかとっても気分がいい夢を見ていた気がするけど、目が覚めたら独りだ。
空腹も相まって、凄く惨めな気分になる。
進学した大学は地元だったけど、家を出た。
家族は『いる』と言ってもあの広い家には滅多に帰ってこなくて、物心ついたときから一人で過ごすことが多かった。
それなら、自分だけの家にいたって変わらない。
大学から自転車で15分ほどの、小綺麗なアパート。
1LDK、という学生が住むには些か立派なところだ。
俺の親は『生きていればそれでいい』スタンスで、生き方に関しては無頓着だ。
俺がゲイだって言っても大して驚きはしない。
こう言うと聞こえはいいかもしれないけど、実際のところ両親は大体のことはお金で解決できると思っている。
現に、毎月有り余るほどのお金が口座に振り込まれる。
男子一人暮らしにかかるお金の額なんて大して考えたことがないんだろう。
確かに何不自由なく暮らしてきたけど、多分家庭というには歪だった。
両親はきっとビジネスパートナーとして利害が一致して結婚したんだろう。
8歳年上の兄は出来が良くて、後継ぎに失敗した時に用意されていた保険という名の俺は出番がなかった。
重圧がないのは楽だけど、端から期待されていない感が寂しかった。
夜遅くまでセフレと戯れて帰ったって、家は基本的に無人。
誰も住まなくなったあの家は、いったい何のために存在しているんだろう。
あの家にいるといつも寂しかった。
だから学校が好きだった。
学校に行けば、友達も好きな奴もいたし。
あの空間にいれば、自分を肯定してもらって受け入れられているって実感できた。
それくらい周りが優しかったってことだけど。
そう自信を持って言えるほどあの空間は満たされていた。
人付き合いがヘタクソなはずの俺にちゃんと居場所があったんだ。
でも卒業してみんなと離れ離れになって、好きな人には好きな人ができて。
また振出しに戻った。
*
一時限目の講義室でぼんやりと始業を待っていると、ど派手な赤髪が視界で揺れる。
ひょこっと覗き込んできたのは髪色に合わないあどけない顔。
二次元から飛び出してきたような風体の彼は例の黛天道だ。
「おはよ、烏丸。」
「ん、はよ。」
「ノート、コピー刷ってきた。」
ご丁寧にクリアファイルに入ったそれを受け取る。
写真を撮らせてもらったらそれでよかったのに。
コピー代を含めて、アイスはグレードの高いやつにしてやろう。
そして彼の周りをちらりと見渡した。
「あれ、今日あの人は?」
「あの人?」
「黒くてデカい……。」
「あぁ、鯱(しゃち)?撒いてきた!」
ふふんと天道は胸を張る。
鯱、というのは。
この天道の傍に片時も離れることなくついている、一人の男。
冷血漢という言葉が肉体を得たような風貌のその人はどう見てもカタギじゃない。
一文字に結ばれた口。
冷たい目、表情。
以前は茶化してきたやつらもいたけど、鯱さんの一瞥で二度と近寄ってこなかった。
彼がいつも着ている真っ黒なスーツはさらにサイボーグ感を増させている。
そんな人間を侍らせているこの天道も何者なんだろう。
異彩を放つ二人。
天道はよくしゃべるけど、あの人が天道以外に話しているところを見たことがない。
見た目も中身も正反対って感じだ。
「いいのか、置いてきたりして。」
「いーよ。鯱がいるとみんな引いてんだもん。
それにどうせGPSであっという間に俺の場所なんか分かるし。
てかそんなのなくても、俺の出る講義内容も講義室も全部頭に入ってるよ。」
「あ~なるほど……え?」
GPS?大袈裟に言っただけだよな。
というか、新入生の俺たちでさえまだ案内図を見ないと教室に辿り着けないのに。
頬杖をついて物憂げな表情をしている天道をぽかんと見つめた。
「あ、ほら。もう来た。」
天道が指をさす方へ目を向けると、講義室の扉から大股で鯱さんがやってくる。
騒がしかった講義室は少しだけ静かになった。
天道は鬱陶し気にため息をついている。
いたたまれないこの空気。
おかげさまで天道以外にまともな友だちができていない。
サークルで仲良くなった奴らも、傍に天道たちがいると話しかけてこない。
天道のことは全く嫌いじゃないけど、鯱さんはまた別だ。
まさかSP付と思う訳ないじゃん。
入学式の時必死な様子で話しかけてきた天道を邪険にできなかった結果、現状に至る。
俺たちが座っているところまでやってきた鯱さんは、安定の冷たい目で天道を見下ろした。
「……一人で行動するなと言ったはずだ。」
「俺、もう大学生なんですけど。別に鯱がいなくても大丈夫だし。
さっさと帰れば。」
「好きで子守をしているわけじゃない。」
堅苦しい口調でそう言って苦々しい表情をする。
えぇ~……やめて~
喧嘩なら他所でやれよ。
2人の顔を交互に見て、仕方なく俺は俯く。
でもこのやり取りはしょっちゅうだ。
鯱さんは文句を言う天道に冷たい反論をして、でも結局目の届く辺りでじっとこちらを見つめている。
フンとそっぽを向いた天道に、眉根を寄せた鯱さんはくるりと踵を返した。
一瞬だけ俺に向けられた鋭い視線に気づかないふりをする。
多分90分の講義の間、ずっと扉の前で待機をしているのだろう。
一度も振り返らずに出ていった鯱さんを見送って、ちらりと天道を窺う。
「ズビッ」
「……泣くならさぁ、最初から喧嘩売るなって。」
「だってさぁ~。」
この通りである。
自らあれだけ冷たくあしらっておきながら、鯱さんに同じようにされると天道は決まってべそをかく。
あんな怖い人に凄まれたら俺は泣くどころか失神しそうだけど。
「もういっそ聞くけど、あの人とどういう関係なわけ。」
「鯱は幼馴染だよ……あと親父の部下?で、俺の護衛で……。」
「あ、もうすでに意味わかんないから聞かなかったことにするわ…。」
ビシッと手で制して天道の言葉を遮った。
すんすんと鼻を啜った天道は小さくため息をつく。
確かに危なっかしさはあるけど、父親の部下が護衛に回るってどんな家だよ。
(もしかしてヤクザ……いやいやいや)
ふと頭をよぎった可能性(というかほぼ事実だろ)に慌てて頭を振る。
これは気づいても気づかないふりをしておかないといけないと思った。
百面相の俺の隣で、悲しげに扉を見つめている天道。
撒いたくせに、置いていかれたような顔をしている。
「なんで撒いたりしたんだよ。」
「だって鯱がかわいそうじゃん。
俺みたいなちんちくりんの世話のために大学来て、変な目で見られてんだよ?」
「ちんちくりんって……
あの人が変な目で見られるのは天道がいてもいなくても変わんないっていうか……。」
俺の言葉に天道は「?」と首を傾げる。
まじか。
この残酷な事実を一体どうやって伝えたらいいもんか。
「なんか、あの人ちょっと威圧感がすごいというか……怖いというか。」
「鯱が?え、いやいや怖くないよ!
そりゃ、俺ももっとニッコリしていたほうが周りからの受けもいいんじゃないかな~って思うけど。」
「いやそれ、もっと怖くなる。」
天道は見慣れているのかもしれないけど、あの人の風貌と言い表情と言い、一般人には受け入れがたいものがある。
というか、本能で普通じゃないのは分かる。
鯱さんの魅力を熱弁する天道の声は、始業のチャイムによって遮られた。
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