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第10話 人間の挨拶
「あいつら、いったい何をやってるんだ……」
隆二は物陰から事の一部始終を見ていた。
ヨシュアの怒鳴り声が聞こえたから、何事かと思ったのだ。
最初は太一がヨシュアの気を引くために、わざと包丁で指を切ったのかと思った。
だけど、あまりにも太一の様子は真剣だった。
そして駆け寄ったヨシュアも……
深く切れたはずの太一の傷をヨシュアは治してしまった。
ヨシュアには治癒能力があるのか?
あり得ない話だが……ヨシュアは特異体質なのか。
なんなんだ。
太一はいったいヨシュアの何を知っているんだ。
何か危ないことに巻き込まれているんじゃないのか。
ヨシュアが性格の悪いやつじゃないのはわかっている。太一が放っておけないのも理解できる。
だけど、もしヨシュアが太一をヘンなことに巻き込んでいるのだとしたら。
いくらヨシュアでもそれは許せない。
隆二はそれから二人のことを黙って観察し続けることにした。
だけど、特に変わった様子はない。
太一の傷が治ってしまったことを除いては。
「タイチ……ボクはイギリスに帰ろうかと思います」
「何急に言い出すんだよ!」
ヨシュアはあれからずっと考えていた。
このまま日本にい続けるのはムリじゃないかと。
すっぽんが手に入りにくくなっている、と隆二から聞いた。
このままではいつか必ずタイチに迷惑をかけてしまう。
「イギリスにはおっかねぇ婚約者がいるんだろ? なんで急にそんなことを言い出すんだ」
「もともとこんなに長居するつもりじゃなかったのです。だから数ヶ月分のブラッドリーフしか持ってこなかった。あれがないと、やっぱり生きていくのは難しいのです」
「でもよ。すっぽんでもちゃんと元気になれたじゃねぇか。明日は大量に仕入れてくる予定なんだぜ?」
「それ、ボクのためだけなんでしょう? 他のお客さんはあまりすっぽんを注文しているところを見たことがありません」
「そんなことはないさ。それに、すっぽん料理をやってるのはウチだけじゃねえから、お前ぐらい金持っていればどこかで必ず手にはいる」
「でもボクのためにタイチにこれ以上迷惑をかけるのは、辛いのです……」
「迷惑なんかじゃねぇよ! 友達だろ? そんな水くさいこと言うなよ!」
「友達……」
ヨシュアは寂しそうな笑顔を浮かべた。
「お前、恋がしたいって言ったじゃねぇか。恋人を連れて帰れば、その500歳の婚約者と結婚しなくても済むんだろ?」
「恋は……もういいんです。ボクには無理だとわかりました」
「あきらめんなって! 急いで帰ることないだろ。明日買ってくる大量のすっぽん、どうするんだよっ!」
「大丈夫です、そんなにすぐには帰りません。準備もあるし」
「ヨシュア……どうしてあきらめるんだよ。行くなよ……」
マンションの前でヨシュアは足をとめて、太一の方に向き直った。
「タイチ……ボクはタイチからたくさんのものをもらった。それでわかったんです。ボクは恋をしたとしても、人間を仲間にすることなどできない」
そうか……
ヨシュアの性格だと、そうかもしれない。
俺のことだって、絶対に仲間にはしないと約束してくれた。
腹が減って餓死しそうになったって、人間のことは襲わない気の優しいやつなんだ。
「とにかく! 勝手に帰ったら怒るからな! 明日もちゃんと店に来いよ!」
「はい、それは約束します。ボクは約束は守ります」
「絶対だぞ、待ってるからな!」
太一はヨシュアの表情を確かめるように、肩に手を置いて顔をのぞきこんだ。
「タイチ、人間の挨拶、していいですか?」
ヨシュアがふいにニコっと笑う。
「人間の挨拶?」
「前にタイチに教えてもらった、好きな人にする挨拶です」
「ああ……あれか。いや、あれはその……挨拶っていうか」
「イギリスでは家族でもあの挨拶をします。ヴァンパイアは誤解を招くのであまりしませんが」
ヨシュアが少し背伸びをして、背の高い太一にキスをしようとしたら、太一はあわててそれをよけた。
「ヨシュア、待て。俺がする」
「ボクがします。タイチを好きなのはボクの方だから」
「違うっ! 俺がヨシュアを好きなんだ! だから俺からする!」
「タイチ……では、一緒にしましょう」
幸せそうな笑顔を浮かべたヨシュアを抱きしめて、唇を重ねた。
ヨシュアを離したくない。太一はやっと自分の気持ちを自覚した。
「タイチは……人間でいてください。大事な友達」
ヨシュアは精一杯の笑顔を浮かべて、タイチを見送りながら、早く日本を離れようと決心した。
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