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八 憧れの人

「なんで君は僕の部屋に入り浸ってるのかな」  鮎川の疑問に、岩崎は欠伸をしながらコーヒーを啜った。 「知らね」 「……」  そう返事をした理由は、岩崎自身も良くわかっていないからだ。鮎川の部屋は落ち着くようで、その実、落ち着かない。鮎川を見ていると、岩崎は何故かモヤモヤするし、ザワザワと胸がさざめく。その何かが何なのか解らないからこそ、岩崎は鮎川のもとに来ていると言っても良い。 「まあ良いけどさ……」  鮎川はと言えば、岩崎が来ることに戸惑っているようではあったが、ドアを開けなかった日はなかった。鮎川が拒むことはなく、岩崎が来れば毎回、センスのないマグカップにコーヒーを注いでくれる。したがって、岩崎はラウンジで淹れるドリップコーヒーよりも、鮎川の淹れるインスタントコーヒーの方を良く飲んだ。 (なんで俺も、クソダサカップで激マズコーヒー飲んでんだか)  しかも、鮎川の顔を見ながら。  自分でも理解できず、持ってきたバイク雑誌をぱらりと捲る。鮎川の陰鬱な顔を見ているよりも、好きなバイクを見ていた方がマシだと思って持ってきたのだ。  鮎川の視線が、手元に注がれる。 「4気筒400クラス? バリバリのスポーツバイクじゃん……」  ぼそりと呟かれた言葉に、岩崎は驚いて顔を上げた。独り言のつもりだったのか、鮎川がハッとして口元を押さえた。 「え? なに、あんたバイク乗るの?」 「の、乗らないよ。僕は、バイクは乗らないんだ」 「――はぁ? なんだ、その言い方」  言い聞かせるような言い方に、岩崎は思わず立ち上がって鮎川の腕を掴んだ。好きなバイクのことを拒絶するような鮎川の言葉に、視線を逸らす鮎川の顔を覗き込む。 「どういう意味だ――」  涼やかな瞳と、目が合った。  思えば、鮎川はいつも前髪が長く、陰鬱で陰のある雰囲気を身にまとっており、岩崎はまともに顔を見たことがなかった。思いのほか怜悧な、涼し気な瞳と視線が絡まる。 (あ、れ……?)  ぞくり、背筋が粟立つ。  脳裏に、金色の髪の男の、スカジャンを着た背中がフラッシュバックした。 「あんた、『|死者の行列《ワイルドハント》』の――」  その人の走りは、誰よりも速く、無駄がなく、美しい。岩崎の、世界を変えた男。 『|死者の行列《ワイルドハント》』の総長。金髪の、怜悧な瞳の男――。 「っ!」  鮎川の瞳が、大きく見開かれた。 「そうちょ――」  言いかけた唇を、鮎川の手が塞ぐ。鮎川の顔は真っ青だった。 「何でっ……」  動揺したのか、鮎川の視線が泳いだ。 (間違い、ねえ……)  ドクン、心臓が脈打つ。  あの頃の、自信たっぷりの表情とはまるで違う。堂々としていて、凛としていた。今の鮎川からは、想像が出来ない。鮎川はオドオドしているし、いつも人の目を気にしているように俯いて、長い前髪で顔を隠すようにしている。  だが、間違いない。間違いようがない。  岩崎の、憧れ――だったから。 「んぐ」  思いのほか力強い手で唇を塞がれ、うめき声を上げる。手を引き離そうとしたが、鮎川の方が力が強かった。  鮎川の唇が震える。 「な、な……」 「……」  剝がれそうにない手に、岩崎は鮎川の指を舐めた。驚いて一瞬浮きあがった手を、今度は岩崎が噛む。 「痛っ」  ひっこめた腕を、今度は岩崎が掴んだ。 「アンタ、『|死者の行列《ワイルドハント》』の総長だよな?」 「――知らないよ」  鮎川の顔が歪む。  岩崎はムッとして、唇を曲げた。どうやら、認める気はないらしい。 「誤魔化そうとしたって無駄だ! 俺は! あんたのことをずっと見てた! 見間違えるはずない!」  思えば、初めて見た時から、何かを感じていたのだ。あの感覚は、どこかで引っ掛かっていたからなのだろう。岩崎は誰より、鮎川の背中を見つめて来たのだから。 「黙れ! 聞きたくない!」 「いいや、黙らねえ! 認めるまで、絶対に!」  逃げ腰になる鮎川に詰め寄る。このまま逃がしたら、二度と部屋に上げてもらえなくなる。そうして、無視され、ごまかされ続けてしまう。そう、思った。  だから、今しかない。岩崎はそう思い、鮎川のシャツを掴む。 (逃がすかよ……!)  突如として消えた憧れの人が、目の前に居るのだ。また消えてしまったら、もう二度と逢えなくなりそうで。  どうして辞めたのか。もう走らないのか。聞きたいことは、山ほどあった。  だが、それ以上に。  もう一度、走って欲しかった。  ――一緒に。  ドン。壁に、鮎川の背を押し付ける。積みあがった荷物の箱が、衝撃で崩れ落ちた。 「っ……」  鮎川の顔が歪む。逃がすものか。その一心で詰め寄った岩崎の肩を、鮎川が押した。 「え」  何が起きたのか、理解できなかった。  一瞬で、視界がくるんと一転する。気づけば、背中にソファの感触があった。 (ヤベっ……)  バイクだけじゃなく、腕っぷしも強いのだと、思っていたよりもずっと男らしくカッコいい鮎川に、興奮して顔が熱くなる。 「あゆ――」 「黙れよ」  冷たい声音に、ゾクリと背筋が粟立った。見上げると、鮎川の冷たい視線が突き刺さる。  起き上がろうにも、鮎川の腕に封じられ、一切身動きが出来なかった。鮎川の表情も雰囲気も、ナイフのような鋭さがあるのに、何故か岩崎は酷く、興奮していた。

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