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二十二話 優しい手を知ったから

 最近すっかり暑い日が多くなってきたせいで、着るものに困った岩崎は、週末、自宅に帰ることにした。岩崎の自宅は、夕暮れ寮のある町からバイクで四十分ほどの距離にある。  バイクを走らせて坂道を上がりきったところにある、白いフェンスのかかった大きい家が、岩崎の実家だ。大きな門扉に、広い庭。庭には四季折々の花が植えられている、西洋風のガーデン。邸宅と言って差し支えない規模の、大きな家だ。  門のセキュリティを外し、中に入る。荷物を手に入れたら、長居するつもりはなかった。  玄関の扉を開き、人がいることに気づいて眉を寄せる。普段は、滅多に家に寄り付かないはずの母親が、リビングでスーツケースを拡げていた。 「居たんだ?」 「あら。あんたこそ、帰ってきたの」  そっけなくそう言って、母親はソファやテーブルに拡げた荷物を吟味している。傍らに、若い男が立っていた。秘書――という名の愛人だ。 (また変わったのか)  また新しい秘書だ。男は岩崎をチラリと見て、皮肉な笑みを浮かべた。 「どこに行ってたの? 誰も居ないんだもの」 「会社の寮に入るって行ってなかった?」 「そんなこと言った? マンションないの?」 「ねーよ。それに、寮のが楽だし」  返事をしたが、母親はすでに岩崎に興味を失くしたように、拡げた荷物を見ながら「こっちじゃなくてそっちの赤い方取って」と指示を出している。  母親が自分に関心がないのは知っていたが、寮に入ったことも覚えていないのだな、と、冷めた気分になる。 「またパーティー?」 「講演会よ。それと綾瀬先生のセミナーがあるの」 「ふぅん……。じゃ、俺は夏物取りに来ただけだから」  そう言い残し、自分の部屋に向かう。自室は、綺麗に掃除がされていた。家人が殆どいない間も、お手伝いさんがやって来て掃除しているのだ。家も庭も手入れされているのに、ここには人の気配がない。たまたま遭遇した母親も、また数週間外出し、帰宅するのは数時間のはずだ。  母親だけではない。父親も同様だ。仕事で飛び回って、休むのは愛人の家。この家と家族がなんのためにあるのか、岩崎には解らない。  持ってきたリュックに服を詰め込む。クローゼットの中は、だいぶスカスカになった。 (このまま一生帰らなくても、多分、気づかないんだろうな)  岩崎がこのまま家を出たとして、両親は気がつかないのだろうと思う。そのうち、一人息子が居たことさえ忘れてしまうかもしれない。 「……」  パタンとクローゼットの扉を閉め、階下に降りる。リビングにはすでに母親の姿はなく、ガレージの方からエンジンを掛けて立ち去る車の音がした。  数ヶ月ぶりに会ったはずだが、邂逅したのは十分にも満たない。親の愛が欲しい年齢は過ぎてしまったが、歪な親子関係に慣れることはなかった。  それは多分、中学だった頃に、優しい手を知ったからだ。あの頃、優しくしてくれた仲間たちが居たからだ。  そして、鮎川は今も、自分を心配してくれる。

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