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三十二 門限と先輩
通話を切って、岩崎はとたんに訪れた物寂しさにフゥとため息を吐き出した。だが、電話をする前のような寂しさとは、また違う。
(……ちょっと疲れてるっぽかったな)
声のトーンで、少しだけ疲れている様子なのがわかった。電車に長く揺られるのは疲れるのだろう。ゆっくり休んで欲しいと、空を見上げる。
そんなことをしているうちに、ガチャリと音が鳴って扉が開いた。どうやら、鮎川から連絡を受けて、藤宮が扉を開けてくれたらしい。
「こら、岩崎。ダメだぞ」
「はい、スミマセンっした」
「寛に電話したんだって? 俺の連絡先も教えておくよ」
「っす」
門限を破るのは、寮則で厳しく禁じられている。三回違反したなら、退寮を命じられるはずである。恐縮した面持ちで藤宮のあとに続く岩崎に、藤宮はフッと微笑んで肩をポンと叩いた。
「なんだ、寛がいなくて寂しいのか?」
「……まぁ」
口にすると恥ずかしかったが、事実だったので頷く。子供っぽいとは思うが、鮎川の居ない寮は寂しい。
「そんな調子で事故でも起こしたら、寛も気が気じゃないし、ドライブはほどほどにしろよ?」
「っすね……。もしかして、寝るところでした?」
「いや、読書してただけだから、大丈夫」
岩崎は改めて、藤宮を見た。考えてみれば、藤宮のことをよく知らない。寮長をしているらしい。鮎川と同期らしい。
藤宮は、柔らかい雰囲気の優男だった。いつでもシャツの襟元をキッチリ締めて、袖も捲らないのに暑苦しくない。シャツ姿意外を初めて見た。不細工な猫のキャラクターが描かれたパジャマだった。
(この猫……)
鮎川の部屋にあるマグカップのキャラクターだ。送り主を察して、なんとなく顔をしかめる。
(……だせぇ)
「同期って他にいんの?」
「ん? ああ、寮には俺と寛だけだよ。今はね。皆、出てったり、辞めたり」
「ああ……」
そうか、と納得する。何年も寮にいれば、出ていくこともあるのだ。岩崎には、まだ考え付かない。
「一人暮らししようとは思わなかったの?」
「いや……。逆に、寮って面白そうだなって」
「ああ、なるほど。じゃあ、折角、寮に入ったんだから、色々な人と交流すると良いよ。ここには、遠くから来た人もいるし、年齢も色々だから。前職があるひとも居るしね」
「あ――はい」
藤宮の言葉に、ハッとして岩崎は頷いた。寮に入って随分慣れたつもりだったが、まだ半分も顔をおぼえて居ないし、話したことがない人も多い。鮎川のことだって、過去のことは知っているが、今のことを知っているとは言えなかった。
薄暗い廊下を歩きながら、岩崎は藤宮の横顔を見た。
落ち着いた横顔を見て、岩崎は藤宮を大人の男だと認識した。思慮深く、配慮がある。岩崎の周囲には居なかったタイプの人間だ。
「藤宮|先輩《・・》は、なんで寮に?」
「俺? 俺は、その方が皆と仲良くできると思って」
「ふーん。じゃあ、仲良くしてください」
岩崎の言葉に、藤宮は一瞬、目を瞬かせた。だが、次の瞬間には、破顔して見せた。
「ああ、もちろん。よろしく頼むよ」
つられるように、岩崎も笑う。
「じゃあ、お休み」と言い合って、岩崎は藤宮に背を向けた。
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