36 / 62

三十六 欲張り

 鮎川の匂いだ。目を覚まして一番最初に思ったのは、それだった。誰もいない家に取り残されるのは慣れっこだったのに、たった五日の出張が延々に長く感じられた。もしかしたら、また置いて行かれるのかもしれない。そう、一瞬思った。けれど鮎川は、毎日電話で答えてくれた。だから、待っていられた。 「やっぱ、あんたがいねーとな」 「何だそれ」  鮎川は呆れた様子だったが、表情は穏やかだった。薄闇の中、鮎川の瞳を覗き込む。  岩崎は鮎川と再会を果たして以来、ずっと何故走るのを辞めたのか知りたかった。けれど今は、それ以上に鮎川のことを知りたい。バイクに乗らなくなった理由も、どんな人生を歩んできたのかも、何もかも、知りたいと思うようになってしまった。  自分が欲深くなった気がして、それが良いことなのか悪いことなのか、岩崎には解らない。ただ、あまり譲りたいとは思っていなかった。 「お前、また余計な事言っただろ」  鮎川がそう言いながら、岩崎の鼻をぎゅっと摘まんだ。 「むんっ、ヤメロって! 大丈夫だって、言っただろ」 「どうだか」 「平気だよ。兄弟はキスしねーっていったら、立花は兄弟だってするって言ってたし」 「……」  岩崎の言葉に、鮎川はなんとも言い難い表情で頭を抱えた。 「それで、栗原も兄ちゃんとすんのか聞いたら、スゲー嫌そうな顔してた」 「まあ、普通はそうだよ」 「鮎川って兄弟いるの?」 「うちは弟が――」  言いかけて、鮎川は口許を押さえた。岩崎はニマッと笑って見せた。鮎川が個人的なことを話してくれたのは、初めてだった。 「へー、弟居るんだ。幾つ下? 俺より下?」 「……四つ下。お前二十二だろ。弟は二十六」 「あ、そうなんだ」  へー、と言いながら岩崎は何かを考えて上の方を見上げた。それから、鮎川の方を見る。 「あれ、鮎川ってもしかして三十?」 「……そうだよ」 「へー、結構、オッサンだったんだ」 「……」  鮎川がムッと顔を顰める。笑う岩崎の脇腹を掴む。 「お前だって、すぐにオッサンになるからな!」 「うわっ! ちょっと!」  そのまま脇腹を擽られ、ベッドに倒れ込む。 「あっはっは! ちょっ、やめ」 「大体、お前が若造の癖に舐めすぎなんだよ」 「あっ! ぷっ、あはは、っは……! 苦し……」  いつの間にか鮎川が覆いかぶさっていることに気が付いて、岩崎は顔を上げた。脇腹を擽っていたはずの手が、腹を撫でる。Tシャツの裾から直に肌に触れられ、ぞく、と背筋が粟立つ。 「あ……」  薄く開いた唇を、鮎川の唇が塞ぐ、舌がぬるりと入ってくる感触に、岩崎は腕を伸ばして鮎川の肩にしがみ付いた。 「ん……」  軽く舌先で唇を擽られ、何度も軽く啄むようにキスを繰り返す。鮎川の手が脇腹や肌、太腿を撫でた。岩崎は足を鮎川の足に絡めて、自分も鮎川の唇に吸い付く。  やがて、荒い呼吸を吐き出し、唇が離れた。 「……シャワー、浴びねえと……」 「……俺も、今日、汗酷い」  なんとなく名残惜しかったが、お互い汗が気になるのは仕方がない。のそりとベッドから起き上がる。鮎川はベッドから降りると、出張鞄を開けた。 「明日は洗濯しないと……。えーと、これだ。ほら、土産」 「おっ。ササカマー?」 「ササカマと萩の月な。あとこれ」 「なんだこれ」 「こけし。白石市ではこけしが有名なんだ」 「……ど、どうも」  こけしと言われて困惑しながら箱を覗いてみると、月の前立てをつけたおにぎりのような見た目のキャラクターのこけしのようだった。ご当地ゆるきゃらのこけしらしい。 「あ、思ったより可愛い」 「お前の部屋、殺風景過ぎるからな」  鮎川は言いながら、土産をソファに並べている。「これは部のみんなに……。こっちは……」その背中を見ながら、岩崎は目を瞬かせた。 (もしかして、この前、ぬいぐるみをくれたのも?)  岩崎の部屋が何もなさすぎるから、くれたのだろうか。 「……」  胸が、じんと熱くなる。鮎川が、関心を持ってくれていることが、嬉しい。鮎川が与えてくれる『普通』が、愛おしい。 (……へへ)  岩崎は宝物を抱きしめるように、ぎゅっと箱を抱きしめた。

ともだちにシェアしよう!