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三十六 欲張り
鮎川の匂いだ。目を覚まして一番最初に思ったのは、それだった。誰もいない家に取り残されるのは慣れっこだったのに、たった五日の出張が延々に長く感じられた。もしかしたら、また置いて行かれるのかもしれない。そう、一瞬思った。けれど鮎川は、毎日電話で答えてくれた。だから、待っていられた。
「やっぱ、あんたがいねーとな」
「何だそれ」
鮎川は呆れた様子だったが、表情は穏やかだった。薄闇の中、鮎川の瞳を覗き込む。
岩崎は鮎川と再会を果たして以来、ずっと何故走るのを辞めたのか知りたかった。けれど今は、それ以上に鮎川のことを知りたい。バイクに乗らなくなった理由も、どんな人生を歩んできたのかも、何もかも、知りたいと思うようになってしまった。
自分が欲深くなった気がして、それが良いことなのか悪いことなのか、岩崎には解らない。ただ、あまり譲りたいとは思っていなかった。
「お前、また余計な事言っただろ」
鮎川がそう言いながら、岩崎の鼻をぎゅっと摘まんだ。
「むんっ、ヤメロって! 大丈夫だって、言っただろ」
「どうだか」
「平気だよ。兄弟はキスしねーっていったら、立花は兄弟だってするって言ってたし」
「……」
岩崎の言葉に、鮎川はなんとも言い難い表情で頭を抱えた。
「それで、栗原も兄ちゃんとすんのか聞いたら、スゲー嫌そうな顔してた」
「まあ、普通はそうだよ」
「鮎川って兄弟いるの?」
「うちは弟が――」
言いかけて、鮎川は口許を押さえた。岩崎はニマッと笑って見せた。鮎川が個人的なことを話してくれたのは、初めてだった。
「へー、弟居るんだ。幾つ下? 俺より下?」
「……四つ下。お前二十二だろ。弟は二十六」
「あ、そうなんだ」
へー、と言いながら岩崎は何かを考えて上の方を見上げた。それから、鮎川の方を見る。
「あれ、鮎川ってもしかして三十?」
「……そうだよ」
「へー、結構、オッサンだったんだ」
「……」
鮎川がムッと顔を顰める。笑う岩崎の脇腹を掴む。
「お前だって、すぐにオッサンになるからな!」
「うわっ! ちょっと!」
そのまま脇腹を擽られ、ベッドに倒れ込む。
「あっはっは! ちょっ、やめ」
「大体、お前が若造の癖に舐めすぎなんだよ」
「あっ! ぷっ、あはは、っは……! 苦し……」
いつの間にか鮎川が覆いかぶさっていることに気が付いて、岩崎は顔を上げた。脇腹を擽っていたはずの手が、腹を撫でる。Tシャツの裾から直に肌に触れられ、ぞく、と背筋が粟立つ。
「あ……」
薄く開いた唇を、鮎川の唇が塞ぐ、舌がぬるりと入ってくる感触に、岩崎は腕を伸ばして鮎川の肩にしがみ付いた。
「ん……」
軽く舌先で唇を擽られ、何度も軽く啄むようにキスを繰り返す。鮎川の手が脇腹や肌、太腿を撫でた。岩崎は足を鮎川の足に絡めて、自分も鮎川の唇に吸い付く。
やがて、荒い呼吸を吐き出し、唇が離れた。
「……シャワー、浴びねえと……」
「……俺も、今日、汗酷い」
なんとなく名残惜しかったが、お互い汗が気になるのは仕方がない。のそりとベッドから起き上がる。鮎川はベッドから降りると、出張鞄を開けた。
「明日は洗濯しないと……。えーと、これだ。ほら、土産」
「おっ。ササカマー?」
「ササカマと萩の月な。あとこれ」
「なんだこれ」
「こけし。白石市ではこけしが有名なんだ」
「……ど、どうも」
こけしと言われて困惑しながら箱を覗いてみると、月の前立てをつけたおにぎりのような見た目のキャラクターのこけしのようだった。ご当地ゆるきゃらのこけしらしい。
「あ、思ったより可愛い」
「お前の部屋、殺風景過ぎるからな」
鮎川は言いながら、土産をソファに並べている。「これは部のみんなに……。こっちは……」その背中を見ながら、岩崎は目を瞬かせた。
(もしかして、この前、ぬいぐるみをくれたのも?)
岩崎の部屋が何もなさすぎるから、くれたのだろうか。
「……」
胸が、じんと熱くなる。鮎川が、関心を持ってくれていることが、嬉しい。鮎川が与えてくれる『普通』が、愛おしい。
(……へへ)
岩崎は宝物を抱きしめるように、ぎゅっと箱を抱きしめた。
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