55 / 62
五十五 我が家へ
「う……、イテ……」
鈍い痛みに、岩崎は瞳を開けた。声を出して、自分の声が嗄れているのに気づく。
(あ――昨日……)
鮎川に、抱かれたのだ。ようやく、触れて貰えた。
昨夜はこれまでの分を取り戻すように、激しく抱き合った。散々、虐められたが、望んだことだ。今はただ、充足感に満ちていた。
岩崎は怠い身体を捩って、すぐ傍で寝息を立てている鮎川の横顔を見る。起きる気配はなかった。
「……」
にじにじと寄り添い、身体をくっつける。顔を伸ばし、頬にキスをした。
ちゅ、ちゅと顔中に何度もキスをしていると、鮎川が「うーん」と小さく呻く。起こさないようにそっと身体を離して、岩崎はじっと鮎川の顔を覗き込んだ。
「……」
ふと、思い付いて、岩崎は鞄に手を伸ばす。中からサインペンを取り出し、にまりと笑った。
◆ ◆ ◆
鼻腔をくすぐるコーヒーの香りに、鮎川は目を覚ました。起き上がろうとして、酷い怠さと身体の痛さに顔をしかめる。
(……筋肉痛とか)
運動不足の自覚はあったが、一晩張り切っただけで腰が痛くなるとは、あまり考えたくなかった。
のそりとベッドから起き上がり、伸びをする。
(しかし――搾り取られたな)
昨晩のことを思い出し、思わず苦笑する。誘惑され、何度もねだられ、精が薄くなっても抱き合っていた。思い出すと顔がにやけてしまう。
「あ、起きた」
「ああ、おはよう。起こして良かったのに」
言いながら、ベッドから這い出て手近に置いてあった服を着込む。岩崎が用意しておいてくれたらしい。
欠伸をしてテーブルを見ると、サンドイッチとコーヒーが置かれていた。ルームサービスなんて、人生で一度も頼んだことがなかったが、それなのだろう。
「適当に頼んじゃったけど」
「ありがとう。ふぁ……今、何時?」
「九時ちょっと過ぎ。チェックアウトは十一時だから、まだゆっくり出来るよ」
岩崎はそう言って、コーヒーを啜った。
鮎川もコーヒーに手を伸ばす。いつも飲んでいるインスタントと違って、澄んだ風味の良いコーヒーだった。
(昨日は急に泊まりってなって、あんまり気にしなかったけど)
部屋をぐるりと眺め見る。ビジネスホテルには泊まったことがあるが、ここはそういうホテルではないだろう。いわゆる、ラグジュアリーホテルに分類されるホテルだ。
「なあ、ここ、結構するんじゃないの?」
一泊幾らの部屋だったのか、少し不安になる。
「普通だろ」
「う、うーん。そうか……」
岩崎が普通というのだから、普通なのだろう。そういうことにしておく。
(多分、岩崎の金銭感覚、少しズレてんだよな……)
昔も、運転手つきの送り迎えだったし。と、半ばあきらめた気持ちになる。
「このサンドイッチ、上品な味がする」
「どこも一緒だろ。気分だ、そんなもん」
ぱくんとサンドイッチを放り込む唇を見て、鮎川は無意識に微笑んだ。岩崎はそれに気づいて、眉をあげる。
「何だよ」
「気分だって言うなら、岩崎と食ってるからだな」
「――」
とたんに、赤い顔をして岩崎がそっぽを向く。岩崎のそういう様子は、珍しいと思った。
他愛のない話をしながら朝食を終え、チェックアウトの準備を始める。なんとなく、荒々しく乱れたシーツが気恥ずかしくて、綺麗に直した。
「あ、そうだ。顔洗ってないや」
「あ」
洗顔を忘れていると、洗面台に向かおうとしたのを、岩崎が阻止する。
「これ。蒸しタオル」
「え。ありがとう?」
暖かいタオルを手渡され、顔を拭く。なんとなく、岩崎がソワソワしていた。
(なんだ?)
鞄を背負った岩崎に急かされ、靴を履く。忘れ物ないかを確認し、部屋を出た。
「その鞄に全部はいってんの?」
「ああ」
「それ、自分で買ってきたの? 僕の部屋にもあるのに」
からかい口調でそういうと、岩崎は少し恥ずかしそうにして「あんまり言うな」と拗ねた口をした。
「昨日の服、似合うから。また着ろよ」
「っ、ヘンタイ……」
「自分で買ったんだろ」
「あんなこと、度々するかよっ……」
心底恥ずかしそうにそう言う岩崎に、鮎川は笑いながらホテルの廊下を歩く。
(相当、勃たなかったのが嫌だったんだな……)
追い詰めてしまったと、仕方がなかったとはいえ反省する。鮎川が思うより、ずっと傷つけたのだろう。
同時に、そこまでしてくれたことに、感動と嬉しさが込み上げる。少なくとも、鮎川の一方通行な想いで、関係を続けているのではないのだ。
(岩崎も、僕としたいと、思ってるってことだよな……)
じわり、熱が胸に込み上げる。その執着が、恋慕によるものなのか、別の何かなのか、鮎川は聞けずにいる。同時に、言うことも出来ずにいた。
(僕は……)
隣を歩く岩崎を見る。
自分は、この子が、好きだと思う。思い出の中の『崇弥』でなかったとしても、岩崎自身に惹かれてしまった。
当たり前のように自分について回る姿が、臆面なく好意を示す姿が、愛おしく思う。
既に自分は、岩崎のかつての『憧れ』とは程遠いはずなのに、好いてくれているというのが、嬉しいと思う反面、罪悪感のような気持ちを抱かせる。
ボンヤリと岩崎の横顔を見ているうちに、ロビーに到着してチェックアウトを澄ませる。支払いは岩崎がしたので、詳細は解らなかった。
受付にいた男が、鮎川の顔を見て一瞬、なにか言いたそうな顔をした。だが、すぐに表情を消して対応を続ける。
(……?)
なにか引っ掛かりを覚えたが、岩崎に引っ張られてホテルを後にした。
◆ ◆ ◆
せっかく遠出したので、どこかに行こうかという話しもしたのだが、昨晩の疲れからか電車の中で岩崎が眠ってしまったので、結局はまっすぐ帰ることにした。
電車内で鮎川にもたれ掛かって眠る岩崎に、少しだけ心拍数が上がる。もっと過剰な接触をしているのに、どうして肩や腕に触れるだけでドキドキするのだろうか。
電車内でやけに視線を感じ、それが余計に恥ずかしい気持ちになった。何故だか、二人の関係を世界中が知っている気になって、いたたまれなくなる。
寮に到着しても、岩崎はうとうとと首を前後に動かしていた。
「帰ったら少し寝たら?」
「ん、鮎川の部屋で、寝る」
「……まあ、良いけど」
部屋に岩崎が居ることに文句があるはずもなく、ふらつく岩崎の腕を掴んで玄関を開く。
「ほら、着いたぞ。足元、段差あるから」
「んー」
ロビーに入ると、日曜の午後とあってラウンジをうろつく人間が多かった。一緒に帰ってきたのを見られるのは、何だか恥ずかしい。
「あ、帰ってきた――ぶっ」
ラウンジのテーブルを陣取っていた鈴木と栗原がこちらに気がつく。鈴木は何故か、鮎川の顔を見るなり吹き出した。
「ん?」
「あー……。鮎川先輩、これ」
栗原がスマートフォンで鮎川を撮影し、画面を見せてくる。
「――あぁ!?」
顔に、サインペンで『岩崎崇弥』と書いてある。やけに顔を見られると思っていたが、これのせいだったらしい。
「おい、岩崎っ……!」
「あ、ししょー」
怒ろうとしたのを、岩崎はスルリと避けて鈴木の方へ行ってしまう。二人でなにやら「うまく行った」とか「ありがとう」とか言っている。
栗原が同情するような目で、肩を竦めた。
「えーと、クレンジングとかで落ちるかも」
「そんなもん、持ってない」
「渡瀬先輩が持ってますね」
「ったく、何なんだ、本当に……」
顔を擦る鮎川に、栗原が苦笑する。
「多分ですけど――寮だと、名前書いておけば取られないから」
「――」
その言葉に、なんと返事をして良いか解らないまま、鮎川は顔を赤くした。
ともだちにシェアしよう!