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第4話

 あれは、いつか。  霞掛かる思考は、現実と過去の境界をあやふやにする。  当時はノリの効いた真新しい学生服のままに。  始業式を終え帰宅した冬季を待っていたのは、母の蒸発と、はじめて会う叔父という存在。濁った目で品定めされ、気圧され震える腕を捉えられ、性行為を知らない身体を強引に貫かれ処女を散らされた。  泣いても喚いても、望んだ助けは、ついぞ訪れなかった。  そうして、いつしか冬季は期待するのを止めた。無駄に失望するだけだ。 『そんな男の元に留まる必要はない』  どこからか聞こえた、心地よい声に頷いてしまいそうになる。  これは夢だ。妙な確信を持つ。一方的な性的搾取が終わった後、叔父は冬季の側にいたことはない。むしろ己が吐射して終わりだ。  ぬくもりに頬ずりする。目尻をやさしく撫でるなんてもっての外。酩酊状態は存外いい夢を見せてくれるようだ。これもイズミによってもたらされたものだろう。  しばらくは覚めたくない。現実から目を背けて、冬季は考えを放棄した。 「……どこ?」  たゆたう意識を浮上させて、冬季は声を漏らす。  見知らぬ木目の天井に現状を掴み損ねる。軋む身体を起こせば、肌触りのいい生地が流れる。緋色だなんてアダルト動画でのコンテンツのひとつのようで、趣味ではない。喧騒も届かない静かな和室には覚えがなく、顔に触れれば傷の手当てが施されている。叔父が運んだのかと、思いかけて否定する。彼が治療につれて行ったことはない。  では、誰が?  なんとなく頭に浮かんだのは、イズミの顔。しかし彼が冬季に接触する謂われはない。  ホテルに大口の客がいたと叔父は漏らしていた。ついに売られたのか。  浴衣からのぞく、己の手のひらを眺める。先ほど見た夢を、過去を振り返る。まるで壊れた映画のように当時の細切れの映像が脳裏にちらついたが、大まかな経緯は変わらない。進学した日、帰宅したら母は居らず、叔父と名乗る人物が舐めまわすように視線を寄越した。童貞よりも先に処女を散らし、甘いキスよりも苦い尺のしゃぶり方を教え込まれた。  そこから考えれば義務教育よりも成長したので、子どもを犯すことによる罪悪感と同時に起こる甘美な優越感、そして自己顕示欲や征服欲は薄れるだろう。確かに叔父がいつまでも自分を手元に残しておく理由はない。  いくら年齢よりも幼く見えるらしいとはいえ、貸し出される人形は需要がなくなったのだろう。 「……ふ、」  ついに彼からも不要とされた。  視界が滲む。家のない、ちいさな迷子の子どものようだ。 「起きたかい」  いつの間にか開かれた襖の先に佇む姿を認め、自身を抱き込んでいた冬季は目を(しばたた)く。 「イズミ、さん……?」 「覚えてくれていたんだ。嬉しいね」  微笑みをたたえた姿は、スーツではなく和装であるが。 「痛む?」 「……目的は何ですか?」  頬に這わされた手を弾き、目を鋭くさせて冬季は問う。  叔父の与り知らぬ所でされた前回の接触。そして今回。 「名前は知っているだろう。伊純(いずみ)と。しがない管理職だよ」  通り名ではなかったのか。いや、そうではなくて。  言葉を切った伊純は再び冬季の頬に手を添える。 「ただ、そうだね。また会って話をしたかっただけだよ」  一夜限りとはいえ身体の関係まで持って、取って付けたように何を(うそぶ)くのだ。 「……あの人はなんと?」  叔父からは。  売られたのだろうが、返答によっては今後の自分の行動が変わってくる。叔父の口ぶりからして、伊純の存在を知らない可能性は十分ある。売られた先がイコール伊純とは限らない。何かしらの手段で、あらかじめ伊純が冬季を知っていたと考える方がスマートだろう。  周囲の人間こぞって性格が曲がっていて、解らないことばかりだ。 「佐々木氏を中心としてではなく、君と話をしているのだけれどね」  つかみ取れない笑みをして、伊純は腰を上げる。そこから、彼が自分と視線を合わせるために膝をついていたのだと気づく。見上げた先の、深い色の瞳は本心を窺わせない。まるで霧の中にいるような会話に、現状を知るのを溜め息ひとつで諦めた。  これでは叔父がこの状況を知っているのか、知らないのかすらわからない。 「……傷の手当て、ありがとうございます」 「どういたしまして。こんなにひどい傷を負うならば帰すのではなかった」  どこまで演技なのかは不明であるが、表情が苦く歪められる。 「君の名前を教えてもらっても?」 「知っているのでしょう」  驚くほど冷たく硬い声が喉から出る。疑問ではなく確信を。 「調べるのと、直接教えてもらうのは随分違う意味を持つね」 「知らない人間には個人情報教えません」 「その『知らない人間』に着いてきたのは君だったけれどね」  混ぜっ返すようにして初対面でのやり取りを示唆され、冬季は眉間に皺を寄せる。返す言葉がないとはこのことか。確かに叔父の名を出されて勘違いしたのはこちらの落ち度であるが、面白くないのは事実。 「……冬季」  ややブスくれたのは致し方ないだろう。もっともらしく理由を付けられたが、以前の名は本名から取られたかと、声に出して遅まきながら気づく。やはり最初から算段され仕組まれた、ホテルでの出会い。さらに疑惑を深める。 「いい名だ。これから傷を治すことを一番に考えたらいい」 「いらない」  もはや敬語もなにもない。今回は客ではないのだから。いや、売られたのならば客であるが、伊純はホテルにいた本当の客ではないので、どの様な立ち位置になるのだ。せめて客かそうでないかは明確にして欲しい。 「手当はしてあるが、大きな傷もある。それに君はもっと食べた方がいい」  まるで世間で聞く親か何かのようだ。散々身体を貪って性を発散したくせに、今さら善人振るだなんて笑ってしまう。 「あんたに払える治療費はない」  酒かオンナか博打に消えているはず。言外に関わるなと示して、ぞんざいに手で払う。 「……なに」  静かに微笑んでいる男に、冬季は顎を引く。  適当にあしらわれて激怒するか、興味を失うところではないのか。自分が思っているのとは違う反応を返す相手が異端で、予測が立たなくて気色悪い。 「ソレが素なのかと思ってね。この前は、何というか大人びていたからね」  男の相手をしているのは自分以外の他人であると、役者のように仮面を被っていないとやっていられない。そもそも伊純にも曝け出す気はまったくなかった。ムッツリと黙っていると、再び頬を包まれ意識を戻される。 「君はどうしたい?」  どうしたい? 「ここに居たいか、それとも佐々木氏の元に戻るか」 「賃金が発生しているのなら、見合う様に奉仕はする」  叔父の場所以外に、行く当てなどありはしない。 「――そう。」  ひとつ、ゆっくりと瞬きをして伊純は静かに続ける。 「では、治療費の代わりをいただこうか」  やはりこの男も、所詮は同じ。苦いものが口に広がる。今までの人種と違うかもしれないと、勝手に期待して落胆したのは自分だ。コスプレやSM、それとも他の特殊性癖か。身構えた冬季は次の言葉の意味がわからなかった。 「一緒に食事してもらおう」 「……は?」

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