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遊と玲華①
「ぉか……たま……」
――えっ?
僕は腰をさすりながら、視線をゆっくりと華乃子ちゃんが見つめている先に向けた。そこは、他と違って妙に薄暗い廊下だった。
そしてその真ん中に、少し乱れた派手な和装で長い髪を結いもせず垂らしたままの、とても綺麗な女の人が立っていた。
そして僕が見てもゾッとするほど冷たい目で、無言で華乃子ちゃんを見下ろしている。
「……あぅ……」
「こんなところで何をしているの?華乃子」
「おかあ……たま……」
華乃子ちゃんは、ずり、ずりと後退して僕の方へと近づいてくる。
「また伊織の邪魔をしに来たの?」
「い、お……」
その人は眉間にギリ、と皺を寄せて華乃子ちゃんを睨みつけると、ばっと右手を上げた。
「本当に、懲りない子ねぇ!!!」
「華乃子ちゃん!!」
僕は一瞬腰が痛むことなんて忘れて、反射的に二人の間に飛び込み、庇うように華乃子ちゃんを抱きしめた。
次の瞬間、電気のような衝撃が僕の背中を襲った。
「いった……!」
数秒後に痛みが襲ってきた。背中だから耐えられるけど、顔で受けてたら相当痛かったハズだ。これを、目の前の2歳児がまともに食らうはずだったんだ……ありえない……!
「ゆぅ!!」
「……大丈夫、だよ」
華乃子ちゃんは泣きそうな顔で僕の名を呼んだ。僕は心配かけないように痛みをこらえて、にっこりと笑いかけた。
可哀想に、小さな手はブルブルと震えていて僕の割烹着をぎゅっとにぎりしめている。目には涙を浮かべていて 顔色も真っ青だ。
「誰よ、貴方」
僕は華乃子ちゃんを抱きしめたまま、その人をまっすぐに見上げた。
なんて綺麗な人だろう。お化粧はしていないみたいのに、白い肌に赤い唇。少し乱れているけど、艶々の黒髪。子どもを産んだとは思えないくらいに身体は細いし、多分、実際の年齢よりも随分若く見えるに違いない。
パッと見では とても病人には思えない。狂気染みた表情以外は……。
『写楽様の名前を出したら逆上されますから』
僕はシズネさんの言葉を思い出して、
「僕は、ただの使用人です……」
そう答えるのが精いっぱいだった。
その人はハァ?という表情をすると、僕の全身を舐めるようにじっくりと観察していた。
「見たことない顔だけど、ただの使用人が何故私の邪魔をするの?私は伊織の勉強の邪魔をしようとした華乃子におしおきしないといけないの。その子をこっちに寄越しなさい」
「え……」
「はやくして」
華乃子ちゃんは、ますます僕の割烹着を強く握る。僕も、華乃子ちゃんを抱きしめる手に力を込めた。
あんな遠慮のない力で子どもを殴ろうとした人に、ハイそうですかと華乃子ちゃんを渡すわけにはいかない。たとえ、その人が実の母親だとしても。
「わ、渡せません!」
「は?」
「母親だからって、こんな小さな女の子をあんなに思いっきり殴ろうとするなんて、許せないです……!華乃子ちゃんは絶対に渡しません!そんなに殴りたいなら、代わりに僕を殴ってください!いくらでも!」
僕には精神の病気の人との接し方なんて分からない。でも、今は他にどうしていいか分からない。華乃子ちゃんのお母さん……奥様は、僕をぎろりと睨みつけた。
「この私に向かって、随分と生意気なクチを聞くのね」
「す、すみません。けど、華乃子ちゃんには手を出さないでください!」
華乃子ちゃんの震えが、いつの間にか僕にも伝染している。相手は華奢な女の人なのに、どうしてこんなに恐いんだろう。
「ふえぇっ……!しゃぁくにーたぁ……!」
とうとう華乃子ちゃんは声をあげて泣きだした。痛いくらいに僕の腕を掴んで、写楽の名前を呼んで……。
その名前を聞いただけで、僕も少しだけ恐怖感が薄らぐから不思議だ。
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