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遊と玲華②
そうだ、僕なんかよりこの子の方がずっと恐い思いをしているんだから、ここは僕がしっかりしなきゃ……。
「よしよし……華乃子ちゃん、大丈夫。こわくないよ」
「ふえっ、うえぇっ、うええええーんっ」
なんだかもらい泣きしそうになってきた。……けど、そんなわけにはいかない。僕は、華乃子ちゃんの頭を撫でてなんとか泣きやませようとした。――すると。
「立ちなさい」
「え?」
「その場に、立ちなさいと言ってるの」
奥様は、表情を変えずにそう言った。僕が立ちあがった途端、思いきり殴るつもりだろうか……。
衝撃に華乃子ちゃんを巻き込みたくなくて、身体を離して僕だけ立ち上がろうとしたけど、華乃子ちゃんはどうしても僕から離れなかった。仕方ないので、一緒に抱き上げた。
(今だけは、写楽の代わりに僕が守ってあげるからね)
そう心の中で伝えて、抱きしめた。
さて、いつ手か足が飛んでくるか……!僕は衝撃に身構えて目を閉じると、舌を噛まないように歯を食いしばった。
「………」
……………あれ?
予想していた衝撃は、いつまでたっても起こらなかった。
「うふふ」
低く不気味に笑う声が聞こえて、僕は目を開けた。奥様は僕に手を出す様子はなく、ただ笑っていた。僕のすぐ、目の前で。
「ひっ……!!」
びっくりして、思わず後ずさった。やばい、変な声が出た。奥様に対してかなり失礼だ……っ!
「貴方からは、写楽の匂いがするわ……」
「え?」
「……貴方、写楽の犬でしょう?」
奥様はうつむき気味で僕にニヤァと笑いかけている。その表情は狂気に満ちていて、僕は恐怖しかない。
でも、どうして?奥様は、写楽の名前を聞くだけで逆上するんじゃ……。
「面白いわぁ……貴方、名前は?」
「……う、梅月遊、です……」
正直に教えて良かったんだろうか、僕には何も分からない。分からないから、仕方がない。もう、なるようになるしか……!
「私は、犬神玲華よ」
「れいか……様?」
「そうよ。貴方は私のことは奥様じゃなくて、そう呼んでくれるかしら?私も、貴方のことは遊と呼ぶわ」
あ、あれ……?
「わ、わかりました……」
奥様…玲華さんは、自分で写楽の名前を出した途端、華乃子ちゃんのことは忘れたみたいな態度だった。まだ目の前にいるのに、まるでその存在が見えてないみたいだ。僕に対する態度も一変しているし、どうして……?
「ねぇ、遊」
「は、はい」
「貴方ってよく見たら……私と同じ目をしているのねぇ」
……………
「……え……っ?」
どういう……意味?
「ねぇ遊、私たち、仲良くなれそうね」
「え、……」
「でも写楽には、私たちが仲良しだって言ったらだめよぉ……あいつ、私のことが殺したいくらい嫌いなの。赤ん坊の頃からたぁーっくさんいじめてやったのが忘れられないのね、きっと。フフフフ……」
「………」
その言葉で、写楽が今までこの人どんな仕打ちを受けてきたのかが一瞬で想像がついて、僕は、背中の痛みが再燃してくるのを感じた。
今、想像したらいけない。想像したら、また涙が出そうだ。
写楽……
今の僕が、幼い君を守ってあげられたらよかったのに。
「私、貴方のことが気に入ったから、今度会ったらとっておきの秘密を教えてあげるわね」
「ひみつ?」
「写楽がとぉっても喜ぶ、私のすっごい秘密よ」
写楽が、喜ぶ秘密?玲華さんが何が言いたいのか、全然分からない。僕はこの人の言葉に 素直に耳を貸していていいの?
「ゆう……ゆう……!うええぇぇん!!」
「華乃子ちゃん、大丈夫、大丈夫だからね」
華乃子ちゃんが場の雰囲気に耐えられない、という風にまた震えながら泣きだした。僕は写楽がしていたように、ぽん、ぽんと華乃子ちゃんの背中を叩いてあやした。
もう、ここから離れた方がいいのかもしれない。でも、どうやってこの場を離れればいいの……!?
「さっきからうるさい子ねぇ……一回殴って黙らせるから、こっちに寄越しなさい」
はぁ!?
「な、なんてこと言うんですか!?殴るなんて絶対ダメですってば!!」
僕は反射的に玲華さんから二、三歩後退り、華乃子ちゃんが奪われないように抱き直した。
「うふふ、じょーうだんよ、冗談」
じょ、冗談……!?
「ねーぇ遊、写楽が喜ぶ私の秘密、知りたい?」
玲華さんがゆっくりと歩いてきて、また距離を詰められた。
「………」
正直、全然知りたくない。でもここで知りたくないと言ったら、何をされるか分からない。
玲華さんの目はギラギラしていて 冗談を言っている顔じゃないから。
「し……知りたい、です」
「うふ、イイ子ね」
手を伸ばされて、前髪をそっと撫でられた。ただそれだけなのに、僕は大袈裟に身体を揺らしてしまった。
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