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最後のくちづけ

 でも泣いてる顔はもう誰にも見られたくないから、俺は親指で乱暴に涙をぬぐった。心が弱っているせいか、些細なことで涙が出てしまう今の状態は正直かなり居心地が悪い。  けど俺は、もう以前の馬鹿な自分には戻れない。 (いや、……戻らない)  そう思った。 * 「……梅月くんの意識は戻ったか?」  今は夜中の三時だ。オヤジの部下はコンビニ……というか深夜でも開いてる店を探すのにだいぶ苦労したらしく、オヤジがそう言いながらおにぎりの入った白いビニール袋を持って処置室に入ってきたのはそんな時刻だった。 「食べなさい。お前は点滴をしていないんだから体力が持たないぞ」 「………」  もう空腹のピークを過ぎていたけど、俺は大人しくその袋を受け取った。オヤジの言うことを素直に聞いてしまうのは、今まで嫌なことからは全て逃げ続けていた自分の弱さを痛感したからだ。このまま逃げ続けていても、何もならないと。  じゃあ俺は、これからどうしたらいい?  どうするべきなんだろう。  ……それはまだ、わからない…… 「……まだ目が覚めていないんだな。仕方ない、梅月くんは目が覚めたら私の部下に車で家へ送って貰う。お前はこれから私の泊まっているホテルに戻って、明日の朝そのまま私とイギリスへ発つ。必要な荷物はシズネがまとめてくれたから一度家に帰る必要はない」 「……は?ちょっと待てよ、何を勝手に!」 「私は三日間の猶予を与えた。勝手なことをしたのはお前だ」 「……ッ!」 「梅月くんの治療費は私が払っておく。梅月園へのお詫びの電話も。お前が連れまわしたせいでこんな目に遭わせたんだからな。大いに反省しなさい」 「うるせぇッ……!」  反論の言葉は、やっぱり出てこない。だって遊をこんな目に遭わせたのは俺だってことは、俺自身がひどく痛感している事実だから。 「じゃあ、ホテルに行く準備をしなさい。荷物はあまり無さそうだが」 「……」  もうこれで……これで遊とは最後なのか。  『お前を置いてどっかに行くわけねぇだろ』って言ったのに、その言葉を最後に、俺は遊を置いて行くのか……。  ……最低。  本当に、最低だ。  結局俺は、何の抵抗もできなかった。  遊の不安を取り除いてやることも、起きた時に傍にいてやることも。  遊は目が覚めた時、俺がいなくて泣くんだろうか。  そして俺はその時、慰めてやることも出来ないのか……。 「……遊……」  俺は丸椅子から立ち上がると、眠っている遊のさらさらの前髪をかき分けて綺麗な額をそっとひと撫ですると、吸い慣れた唇に軽い口付けを落とした。見ていた医者と看護師が焦ったようにガタンと音を立てたけど、もはや気にならなかった。  もう、何も……。 「別れは済んだか?……行くぞ」 「……」  もう俺には何も出来ない。今度同じ真似をすれば、次はきっと失敗して遊を殺してしまうだろうから……。  遊は俺に殺されたいと言っていたのに、何もできなくてごめんな。  俺はオヤジの部下に慰められるように背中を撫でられて、さっき自分が乗ってきた車に誘導された。慰められてんじゃなくて、逃げないように抑えられただけなのかもしれないけど。  ……心配しなくたって、俺はもうどこにも逃げたりはしない。  というかこの状況で、どこに逃げるんだよってな。  車に乗り込もうとした瞬間、外に繋がっている処置室の方からガタンッと大きな音と医者の叫ぶ声がして、俺は思わず振り返った。 「ちょ、ちょっと!君っ、待ちなさい!」  俺の目に飛び込んできたのは、点滴を引き抜いたのか腕からぽたぽたと血を流している、病衣姿の遊。立っているのがやっとという出で立ちで、その大きな両目からは涙がぼろぼろと零れ落ちている。  ……どうやら俺が予想していたよりも、早く泣かせてしまったらしい。 「写楽、行かないで……行かないで!」 「っ……」  ああ   やっぱり、離れたくない。  離れたくない!! 「遊……っ!!」  俺はオヤジの部下を押しのけると、裸足のまま外に出てきた遊のもとに駆け寄った。そしてそのままの勢いで、思いっきり遊を抱きしめた。

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