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第5話
ここ最近、すこぶる体調が悪い。
日々は普通に過ぎていっているのに、俺だけが取り残されたように徐々に弱ってきているようだ。
理由は明白。
それは先日兄とプレイした後からSubとして全くプレイが出来なくなったからだ。理由は兄の奥さんが妊娠したから。前々から兄には自分以外のDomとのプレイを勧められていたが、俺がそれを拒否していた為ズルズルと兄とプレイをするという関係が断てていなかった。だが兄の奥さんが妊娠した今、兄からは『私も出来る限りのサポートしてやりたいと思っている』と言われれば俺の都合だけで兄の時間を縛る事も出来なくなった。
さんざ兄から『信用出来るDomを紹介する』と言われていたが、俺は首を縦に振らなかった。
自業自得と言えばそれまで。今のこの状況を作り出しているのも全て自分のした事なのだが、だからといって『はい、解りました』と他人のDomを受け入れられる程器用でも無い。
Subのフェロモンや精神面でSub性に引っ張られない為に安易な考えで薬の量が増えた。
俺が服用しているSub用の抑制剤は通常よりも強いものだ。それは他人に自分がSubだと解ってしまうかもという恐怖心から一番強いものを選んでいるのだが、強い薬は効能に対して副作用も強い。俺が飲んでいるものは倦怠感や睡眠障害があり、Sub用の抑制剤をここ最近通常よりも多く服用している為、睡眠不足にプラスして本当に頭痛が激しくもっと酷い時には吐き気までもよおす始末だ。
……………、良い加減誰でもいいからプレイしないとな………。
金さえ払えば自分よりも力の弱いDomにプレイはしてもらえる。ただ、それで自分が上手くSub性に切り替わるのか、またコマンドが効くのかは不明だ。
「多分……無理だと思うがな」
前に一度だけ試した事のある行為は、俺にとって苦痛なだけだった。上手く切り替わる事も出来なければ、効きもしないコマンドに不快感だけが肌をなぞるようで……。
あの時の記憶が蘇りそうになり、俺はブルリと身震いすると傍らにあったグラスを手に持ち、中の水を一気に飲み干す。
コンコンコンコン。
役員室のドアをノックされ、溜め息を吐き出しながら応答すると、秘書が中へと入って来て
「専務、そろそろお時間です」
と、最後の業務連絡を伝えてくる。
「解った。お前はもう上がって構わない、車は?」
「はい、既に表に用意出来ております」
俺はその言葉に椅子から立ち上がり、部屋を出て行く。
今から商談と言う名の会食だ。今度安く買い上げたワンルームマンションを改装してビジネスホテルにするために新しく手を組む事になった企業との交流の場を、あちら側から提案してきた。会食などと良い言い方をしているが、言ってしまえば接待だ。これから一緒に仕事をする相手との会食を、体調が悪いからと無下に断れない。
家村が開けている後部座席に滑り込むように入り、秘書からあらかじめ目的地を聞いていたのであろう、奴はスムーズに車を出す。
しばらく車を走らせて到着した店で車を降りた俺の後ろには、家村も一緒に付いて来ている。
「一時間半位に体よく切り上げさせろ」
後ろに付いて来ている家村を振り返らずに、俺はそう言うと
「……、解りました」
しばらく黙ったままだった家村がそう呟き返し、ゴソゴソと後ろで何かしている。
店に入ると正面に、予約客をさばくスタッフがカウンターに立っており、俺達を見てペコリと深くお辞儀する。
「いらっしゃいませ、橘様」
事前に俺の事を知っていたスタッフはニコリと挨拶してカウンターから出て来ると「こちらです」と一言い、俺達を席へと案内する。ゴージャス過ぎない内装は、シンプルだが品良くまとめられており、明る過ぎ無い照明が落ち着いた雰囲気によくマッチしている。俺達は左手にその中で食事を楽しんでいる人達を見ながら、カウンター奥の階段を上がって行く。きっと二階が個室になっているのだろう。
階段から毛足の長い絨毯が敷かれており、靴音はそれに吸収される。二階に着けば廊下を挟んで扉が二つ。スタッフはそのうちの一つに近付くと軽やかにノックをして中からの返事を待っている。
「何だ?」かその辺の答える声が中から聞こえ「橘様がお見えになりました」と、スタッフが返せば「通せ」とまた返事が返ってきて、その台詞にスタッフは一度俺を振り返りニコリと笑ってドアを手前に引く。
開かれたドアから顔を覗かせれば
「橘さん、お待ちしていましたよ」
と、先程の武尊な言い方は鳴りをひそめニヤついた顔で席を立つ取り引き先の奴等が出迎えてくれる。
「遅れてすみません、少し道が渋滞していたもので」
だが俺もそんな事はおくびにも出さず、貼り付けた笑顔で勧められた席へと座るとタイミング良く室内に入って来た給仕がテーブル横にセッティングしてあったバケツ型のワインクーラーからグラスにワインを注ぐ。
「イヤイヤ、お忙しい中お時間を作って頂きありがとうございます」
相手のグラスにもワインが注がれ、グラスを互いに持ち上げる事で乾杯の意とする。
「料理を持って来てくれ」
「かしこまりました」
給仕はそう言われ軽く会釈すると部屋を出て行く。入って来た時から何となく力関係を見ていると、俺の正面に座っている相手側の専務が一番偉そうで采配をしている。まぁ、相手側で一番Dom性が強いのがコイツだ。次は俺の隣に座っている部長。一応Domなのだろうがそこまで強いワケじゃない。そうして専務の隣に座ってる平社員みたいなのが唯一ノーマルってところか。
Domの奴は自分のダイナミクス性を抑える事をしない奴がほとんどだ。一応Dom用の抑制剤もあるが、飲んでいる奴に俺はほとんど出会った事が無い。俺はSub用の抑制剤を飲んでいるから、併用してDom用は飲めない。
こいつ等も自分達の背後に二人、Domのボディーガードを配置しているが、俺や家村よりも力は強く無さそうだ。
「本日はより楽しんで頂けるようにしましたので、満喫して帰って下さい」
「……………、ありがとうございます」
少し含みを持たせた物言いが気になったが、俺は微かに笑いながら答える。すると部屋のドアがノックされ、給仕が料理を運んで来た。
「入りたまえ」
楽しそうに向こうの専務がそう言うと、ドアが開きカラカラとワゴンを押して入ってきたのは若い女のSub達だ。
「ッ……」
明らかに給仕では無い雰囲気に俺と家村は緊張するが、そんな俺達に気が付いたのか
「そんなに構えないで下さい、ただの給仕として雇ったSubです。何なりと申し付けて下さって大丈夫ですよ」
ニヤニヤと下衆な顔付きで専務がそう言い、オードブルの盛り合わせが乗った皿を静かにテーブルへ置くSubの尻を突然鷲掴むと
「気に入った子がいれば、どうぞコマンドで好きにして頂いても構いません」
そのまま鷲掴かんだ手を厭らしく動かしているが、掴まれているSubは嫌な素振りを見せるどころか、どこかもっとして欲しそうな表情で相手を見詰めている。
……………、何だ?
その雰囲気に違和感を覚えた俺は注意深くSubを見ていたが、俺の目の前に皿を置いたSubの匂いが香って全てを把握する。
この女達、抑制剤を飲んでいない……。むしろ誘発剤を飲まされているのか?
近付いたSubからフェロモンが強烈に匂って、俺は眉間に皺を寄せてしまう。
こういう会食にSubを雇う事はままある事だ。だが、安全を確保する為Subが抑制剤を使用している事が多く、それによってDomも暴走する事無く楽しむ場が提供される。
体調が良ければ軽くかわせるのだが……。
テーブルに乗った皿へフォークを滑らせて、何事も無いような素振りで料理を口に運びワインを飲む。隣に立ったSubを極力見ないようにし、世話を焼きたがる行動を制して気の無い事をアピールしているが、それをどう取ったのか相手側の専務は俺の言動に少し不満顔を向けながら
「お気に召しませんでしたか? それとも従順なSubはお嫌いかな?」
自分が言った発言にガハハッと汚く笑う相手を冷やかに見詰めながらも、俺も口角を上げて笑い
「Subとのプレイは飽きる程やってますからね。逆に私よりも力の弱いDomを服従させたら面白いかもしれません」
嫌味を込めて言った俺の発言に一瞬にして場の空気が凍る。それはそうだろう。俺よりも強いDom性を持っているのはこの場で家村位しか居ないのだから。もし、俺がここでGlareを使えば簡単に家村以外の全員が服従するだろう。
「ハッ……、ハハハッ! 流石橘さん、冗談がお上手ですね」
顔を引き攣らせながらそう言うしか無い台詞を吐いて、側にいるSubに俺のグラスにワインを注がせる。俺も事を荒立てる事は無いと静かにワインを注がせるが……。
如何せんSub達のフェロモンが強く、鼻よりも口で息をしないと持っていかれそうだ。
俺が呟いた一言で暫くは仕事の話をしながら食事をしていたが、一向にSubに手を出さない俺に痺れを切らしたのか、周りが苛々している事が肌で解る。きっと俺がこの中のSubに一言でもコマンドを言えば、自分達が優位にでもなれると勘違いしているのだ。
………………、次は無いな。
自分達の技量で仕事を取らない奴等と、次回一緒に仕事をするつもりは無い。今回の件が終れば兄に報告して終わりだ。
………Subの使い方が悪かったな。
デザートを待つ間、相手側の専務が焦りと苛ついた表情を最早酒で隠す事も出来なくなったのか、唐突に隣にいたSubに対し
「Kneel」
と、コマンドを発した瞬間。
グニャリと俺の視界は歪み、咄嗟に掴んだテーブルクロスを手前に引いてしまった為に、ワイングラスがバランスを崩して床へと滑り落ちる。
ガシャンッ!!
大きい音を立てて床の上でグラスが割れて、ワインが広がり血溜まりみたいになっているが、そこへ視線を移す前にコマンドを言われたSubの嬉しそうな表情が視界に入り、俺はゾワリと項が粟立つ。
強引に誘発剤を飲んでいるSubの女は、我慢していたコマンドを言って貰えてウットリと恍惚の表情を浮かべながら、その場にお座りしている。
「GoodGirl」
グラスが割れているというのに、コマンドに従ったSubを褒める言葉に、褒められた女は更に嬉しそうに褒めた相手の太腿に自分の頬を擦り寄せて、もっと言ってくれと次のコマンドを催促するよう上目遣いで相手を見ていて……。
俺はワイングラスからそのSubヘ再び視線を泳がせ、目が離せなくなってしまう。それは、自分がコマンドを言いたい衝動に駆られたからじゃ無い。自分がコマンドを言って欲しいと思ってしまったからだ。
Domの支配下に入って、気持ち良さそうにしているSubが羨ましく、自分も誰かにコマンドを言ってもらいたいと言う欲が湧き上がる。
「ぁ……………ッ」
歪んだ視界が赤く染まり、さっきまで飲んでいたはずなのに喉が酷く渇いて持っていかれそうになった俺の耳に
プッ、プルルルルルルッ、プルルル……。
俺の背後で電話の着信音が鳴り、ハッと我に返って後ろを振り返れば、家村が自分の内ポケットからスマホを取り出し、一度俺の顔を見て電話に出る。
「家村です。……はい、今は会食中でして……、はい、はい……。かしこまりました、伝えます。失礼致します」
小声で応対して電話を切った家村は一歩俺に近付き耳元に口を近付けると
「社長から、〇〇の資料が早急に見たいとの事です」
と、告げる。
基本仕事の資料は全て会社の役員室の金庫へ保管している。早急に見たいならば一旦会社へ戻らなければ……。
「すみません、急遽急ぎの用が出来ましたので、この辺で切り上げさせて頂きます」
俺は膝に置いてあるナプキンで口元を拭いながらそう言うと、相手は困惑気味に
「きゅ、急ですな。後はデザートだけですので、食べて行かれては?」
何としてでも俺を引き留めたい相手は、俺の隣にいるSubに目配せすると、そのSubが俺の肩に手を伸ばそうとする。
「触るな」
先程まで持っていかれそうになっていた自分に対しての苛つきで、威嚇の覇気を上手く隠せない俺は、低く暗い物言いをSubへと発してしまう。
言われたSubは伸ばしていた手を瞬時に引っ込め、すぅっと血の気が引いた顔で俺を凝視し固まると、カチカチと奥歯を鳴らし始め周りにいた者達も一瞬で固まり、息を呑んでいる。
俺はガタッと椅子を引いて立ち上がり
「お先に失礼致します」
一度ニコリと微笑んで、クルリと踵を返す。
部屋を出て階段をユックリと降り、行きしなに確認していた階段奥のレストルームへと歩いて行く。
「専務?」
家村は突然歩く方向を変えた俺に驚きながらも後を付いて来る。俺はレストルームへ入ると足早に扉に近付いてドアを閉める余裕も無く便座の蓋を開け、両膝から崩れ落ちた瞬間。
「ぅ゛………ッ、ゲエ゛、ェ゛……ッ」
先程まで食べていた料理が胃から食道を通って口から吐き出される。
「専務ッ!?」
後ろにいた家村は突然吐き出した俺に驚いた声を上げるが、すぐに俺の背中を擦りに近付き
「大丈夫ですか?」
「……ッ、ぅ゛……ハァッ……、は、ぁ゛、エ゛ェ……ゲ、ェ゛ッ」
家村の問いかけに答える余裕無く、俺は吐き続ける。
…………………。限界が近い。
ここ最近Sub用の抑制剤でまともに睡眠が出来ず、誤魔化す為にDom性を発散させプレイしていたが、コマンドを言われた時のSubの表情ばかりに目がいってしまう自分が嫌で、最近は一時に比べSubとのプレイも自重していた。それに一番は兄と『プレイが出来ない』事で……。自分のSub性が満たされずギリギリの状態での今日だ。
普段なら決して思わないのに、最後にコマンドを言われたSubが自分なら良いのにとDomの時に思ってしまう程の羨望と嫌悪。
あらかた胃の中のモノを吐き出した俺は、ハァッ、ハァッと荒い息を吐き出し便座に腕を置くとその上に額を乗せる。が、すぐに背中を擦っていた手によって顎を持たれグイっと後ろに引かれると、口元をペーパーで拭かれてザァッと水が流れる音。
「立てますか?」
家村は心配そうな声を出しながら俺の両脇に腕を差し込み持ち上げ、そのまま手洗い場まで移動する。もつれる足を動かして俺も歩き手洗い場の所へある椅子へ座ると、そこにあったグラスに水を入れて奴は俺の前へ差し出した。
「口、気持ち悪いですよね? ゆすいで下さい」
カタカタと微かに震える指先でグラスを受け取り、口の中をゆすいで吐き出す。そうして傍らに置いてあるナプキンで口を拭いて
「行くぞ……」
フラリと立ち上がった俺の側へ来て、背中に手を回そうとする家村に俺は
「大丈夫だ、先に行って車を回して来い」
「イヤ、でも……」
「いいから行け」
「ッ……」
一歩も引かない俺に、家村は一瞬躊躇するが少しズレた眼鏡をクイッと押し上げそのまま立ち上がり、足早にレストルームを出て行く。
「……ックソ」
俺は一度そう呟き、目の前にある鏡に視線を上げれば、目は充血し真っ青な顔色の自分と目が合って口元を歪める。
「なんて顔してる……」
とりあえず何事も無かったようにここを出て車に乗らないと……。
取り引き先の奴等がここに来ないとも限らないし、スタッフにさえ弱ったところを見られたく無い。もし万が一ここのスタッフと取り引き先が繋がっていれば、弱味を握られた事になる。それだけは回避しなければ。
Domの奴等は容赦が無い。少しでも自分が相手より優位に立てる事柄があれば、それをネタに好きなように振る舞ってくる。自分よりも弱いDomにそんな事……。
俺は何度か深呼吸を繰り返し息を整えると、足にグッと力を込めて一歩を踏み出す。
「橘様、もうお帰りですか?」
出入り口付近、俺を個室まで案内した予約係がそう声をかけてきたので
「あぁ……、急に仕事が入ってね」
「そうですか……。当店の料理は楽しんで頂けましたでしょうか?」
「あぁ、悪く無かった。今度は妻と一緒に来よう」
「お待ちしております」
他愛無い会話を交わし、予約係が出て行く俺の為にドアを開ける。その正面には家村が車の後部座席のドアを開けて待ち構えていた。
俺は何事も無かったかのように車に乗り込み、家村がドアを閉めると深く背もたれに沈み込む。ドアの外ではスタッフが深々とお辞儀をしていて、車はユックリと走り出した。
「ご自宅まで向かいます」
バックミラー越しに家村が俺を見ながらそう言うので
「社長が見たい資料があるんだろう? 会社へ戻ってくれ」
シュルリと締めていたネクタイを緩めながら答えた俺に
「あの電話はフェイクです。専務に言われた通り一時間半で鳴るように設定していたアラームですので……」
「…………………ハッ。……そうか」
時間指定していた俺の言い付け通りに、ゴソゴソしていたのはアラームの設定? 意外に頭が回るじゃ無いかと少し可笑しくて笑ったが、その直後に俺は安心して気が抜けてしまいドロップアウトしてしまう。
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