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「この店の名前の由来、知ってますか?」 「ん~? 知るわけないだろう」 「『ただひとつの、恋』って言うらしいです。浩輔と旅行に行ったときに、さんざしの花言葉を教えてもらいました。白くて小さな花が咲いていて、かわいくてキレイだった」 「へぇ。この店の名前、そこから取ったんだ」 「はい。彼がそう言ってました。意外とロマンチストなんですよね」  藤崎が微笑んだ顔を見せると、美澄も目を伏せ口元を緩ませた。トロンとした彼の目は、相当お酒が回っている証拠だ。憂いを含んだような目は、グラスの中のワインを見ているようで、けれどどこか遠くを見ているようでもあった。 「美澄さん、そんなに飲んで明日運転できるんですか?」 「ああ? ひと晩寝れば酒なんてもんは抜けるっての」 「いやですよ? 事故とか――」 「――心配するな。俺は死なねぇよ」  美澄の返事ににっこりと笑顔を返し、藤崎は立ち上がった。  すでに時間は真夜中になっている。車で来た美澄は帰るつもりなどないのだ。これも毎年のことだから慣れている。テーブルの上の皿を片付け、畳の上で寝転がってしまっている美澄をため息交じりに眺めながら、布団を敷く。 「どうせ、泊って行くんですよね?」 「飲酒運転で捕まると、花の仕入れができなくなっちまうぞ?」 「脅しですか?」  藤崎が呆れたように返事をすると、敷いたばかりの布団の上へごろごろと転がってきた。普段も子供っぽい悪戯をする人だったが、酒が入るとそれに磨きがかかる。 「全く、いい歳してだらしないですよ?」 「はーい、はい」  こうなるともうダメだ。藤崎は枕を手にして近づき、美澄の背後で両膝を付いて座る。それを美澄の頭の下へ入れようとして左手で彼の肩に触れた。 「……っ」  突然、思いがけない強さで手を掴まれ、驚いて止まる。何事かと顔を覗き込もうとすれば、美澄が唐突に話し始めた。 「誰かを、好きになること、怖がるな……」  寝ぼけたような声でボソボソ言うと、掴んでいた手からゆっくりと力が抜けた。パタリと美澄の手が布団へと落ちる。 「……え、寝たん、ですか? 美澄さん?」  様子を伺うと彼はスヤスヤと規則正しい寝息を立て始めていた。掴まれた手の感触がまだ残っている。奥村がいなくなってから美澄以外とは一定の距離を置いて接してしまう。だからプライベートで遊びに行くこともほとんどなく、大学の友人とも今は交流がなくなっていた。  人との距離を詰めて親しくすることが怖い。一番大切なものを取られてしまったという事実が、藤崎の中では深い傷になっていた。 (あーあ、子供みたいに寝てるよ……)  藤崎は毛布と掛け布団を美澄にそっと掛けた。気持ちよかったのか、少し身じろいだ彼は、ムニャムニャと口元で何かを呟き、また寝息をたてる。 「僕はまだ、忘れることも、新しい恋をすることも怖いよ。美澄さん――」  意識のない男の背中に呟いた藤崎は、隣にもうひと組布団を敷き、そっと潜り込み頭まで布団を被った。  彼が亡くなった時の年齢はすでに越えてしまった。藤崎が二十九歳になった今も、奥村の姿はあの頃のまま変わらず脳裏に焼き付いて消えていない。  何年経っても真実味のない奥村の死は、毎年命日に墓参りに行っても実感が湧かない。最後を見れなかった藤崎にとって、墓に刻まれた名前を見たところで、それは恋人の名前の入ったただの石にすぎなかった。何度訪れてもその感覚は抜けないままだった。

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