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第1話 頼み
最悪の気分で重い体を引きずりながら、榊原楓 は地下鉄を乗り継いで得意先へと向かっていた。
藤城会病院。
できることなら一番行きたくなかったその得意先へ、今日はどうしても出向かなくてはならない用があるのだ。
榊原は竹中薬品という製薬会社のいわゆるMRと呼ばれる営業社員で、昨年中途入社して以来営業成績最下位という汚名を背負っていた。
最初のうちは付き添って指導してくれていた先輩社員にも見放され、このまま成績を上げることができなければ辞めるしかない、というところまで追い詰められていた。
今日は藤城会病院へ行って、主に内科で使うある薬品を扱ってもらうようにお願いする予定になっている。
藤城会病院に勤める内科医の中川俊輔 は榊原の高校の同級生だ。
それなら仕事もやりやすいだろうということで榊原に任された得意先である。
確かに他の得意先よりは頼みやすい間柄ではあったが、中川とは高校時代それほど親しい関係ではなかった。
どちらかというとお坊ちゃん育ちで天真爛漫な中川であったが、わがままで強引なところがあるのであえて仲良くなりたいタイプではなかった。
仕事で再会してから使い走りのような頼み事をされることも多く、榊原はそれに逆らうことができない。
それでも中川は榊原が新製品を持っていくと必ず使ってくれていたし、仕事の上では何かと榊原に便宜を図ってくれてはいた。
同級生でありながら頭の上がらない主従関係のようなものができてしまっていて、榊原にとってはとても友達と呼べるような関係ではないのである。
外来が終わる時間まで待って、中川のところへ行き、新しい商品の説明をさせてほしいと頭を下げた。
中川は榊原の説明を面倒くさそうに聞いていたが、そのうちにもういい、と話を遮った。
「薬は使ってやるよ。その代わりお前にちょっと頼みがあるんだ」
「なんでしょう。僕に出来ることなら……」
中川はニヤっと笑った。いつものことだ。
タダですんなりと注文をとれることなどほとんどない。
榊原は中川の頼みというのが、自分に出来ることであるように祈った。
「お前、今週の日曜日空いてるか?」
「空いてますが」
空いていなかったとしても、榊原に拒否権はない。
それに榊原が休日はたいていヒマだということを中川は熟知していた。
「お見合いパーティーがあるんだ」
「パーティー?」
「医者限定の合コンみたいなもんだ。人数が足りなくて困っているからお前も参加しろ」
「でも医者限定なのでは?」
「大丈夫だ、お前は病院のことに詳しいんだし、医者のフリしててもバレねえよ」
「でも……人を騙すなんて僕には……」
「騙すのが嫌なら、気にいった女がいないフリでもしてたらいいんだよ。ただ世間話をしているだけなら、別に騙したことにならないだろ?」
中川は人数集めに困っているのか、引き下がる気はなさそうだ。
今回はやっかいな頼みごとだな、と榊原はため息をついた。
「わかりました。でも、バレても知りませんよ」
「大丈夫だって。俺だって側にいるんだから、うまくごまかしてやるよ」
中川は機嫌良さそうな顔になり、口裏を合わせるために、いくつかの相談をした。
榊原と中川は医大の同級生で、同じ病院に勤めている内科医である、という設定だ。
勤めている病院名はパーティーでは明かさない、というルールだということだった。
榊原はひとつだけ気になることを聞いてみた。
「この病院の先生で他にも参加する人はいるんですか」
「いや、今回は俺だけなんだ。それでお前に頼んでるんじゃないか」
榊原はほっと胸をなでおろした。
中川だけなら適当に口裏を合わせられても、他の知っている医者の前で医者のフリをするなんてとても無理だと思ったからだ。
それに榊原にはこの病院に苦手な医者がいた。
できることならそんな場所で顔を合わせて弱みなど握られたくない。
「じゃあ、頼んだぞ。一番良いスーツ着てこいよ」
「あの……伝票……」
「ああ、そこに置いておけよ」
面倒なことを頼まれたが、とにかく注文は取れた。
榊原が頼み事を聞けば中川も聞いてくれる。
変に借りを作るより、その都度返しておいたほうが榊原にとっても気楽だ。
医者から用事を言いつけられたりするのは榊原だけの話ではなく、先輩社員からもしょっちゅう愚痴を聞いている。
営業の立場なんて医者の便利屋かパシリみたいなものだった。
一番年の近い先輩などは、ライバル会社の営業と一緒に飲み会の席に呼ばれ、パンツ一丁で裸踊りを強要されたと言っていたことがある。
面白かったほうに注文する、と言われて競わされたあげくに、注文はライバル会社に持っていかれたという笑えないオチがついている。
そのことを思えばパーティーに出ることぐらいたいしたことではない。
二時間ほど我慢してそこにいれば良いだけのことなのだ。
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