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 こんな経験は、初めてだ。  今まで山吹が体験してきたのは、セックスの後に『セフレにならないか』という誘いがほとんど。真っ直ぐ『好きだ』と言われたのは、もう何年も前の話だ。  しかも当時に向けられていた好意は、おそらく好意ではない。性欲と恋情の境い目も分からない学生の発言をセックスの後に信じられるほど、山吹は残念な頭ではないのだ。 『だけど、ボクは……っ』  だからこそ、山吹は戸惑う。初めて、性欲や暴力を抜きとした愛情を向けられているのだから。  どうするのが、正解なのか。どうしたいのかも、分からない。  桃枝から告白されて、最初に感じたのは【落胆】だ。それがするりと【困惑】に変わり、そして、そして……。  胸が騒いでいるのは、ラブソングにありがちな【ときめき】というものなのか。それとも、ただの第六感による警鐘なのかさえも、分からない。  ゆえに、時間稼ぎ。山吹は両手を前に出しながら、桃枝と距離を取る。 『ボク、普通の恋愛とかよく分かんないです。友達とかいないから、そもそも普通の交友関係とかが分からないんです』 『そんなものはこっちだって同じだ。この年になってもまだ、年下から人との付き合い方を学ぶような男だぞ?』 『どうしてちょっと自慢気なんですか』  時間稼ぎ、失敗。桃枝は、思っていた以上に本気だ。  そもそもの原点に戻ると、どうして山吹は桃枝に【落胆】したのか。それは、桃枝が他と同じく【性欲】を主軸に山吹と関わろうとした、と。そう、山吹が早とちりをしたからだ。  だが、実際はどうだろう。桃枝には下心がなく、その証拠として距離を縮めてはいるが手のひとつも握られていない。  ならば、感じた【落胆】に付随する不和はナシ。山吹は今まで通り、桃枝を【唯一の相手】として見ることができるのだ。  ──しかし、仮に。山吹が、桃枝の告白を断ったとしたら?  桃枝は潔く身を引き、そして金輪際、山吹に近寄らないだろう。不器用なくせに真面目すぎるこの男のことだ。山吹からの【お断り】を、表面上の意味合いでしか察することができないに決まっている。きっと、山吹が断ったその瞬間に、山吹の感情を【拒絶】として受け止めるに違いない。  さすれば、桃枝との関係はここで終わり。山吹がどれだけ『違う』と言っても、桃枝と築いてきた【普通の関係】は、終焉を向かえるのだ。  ……それだけは、惜しい。手放したくは、ない。  ──山吹緋花は、どこまでいっても打算的な男だった。 『──じゃあ、お試し。とりあえず、仮の恋人ってことでも、いいですか?』  相手の好意を利用し、逆手に取り、手玉に取る。  純粋無垢な想いに対し、山吹は悪辣で利己的且つ自分勝手な思いを返した。  当然、山吹の提案を桃枝は一度で理解できない。桃枝は眉を寄せて、怪訝そうに山吹を見つめた。 『それって、普通の恋人となにが違うんだ?』 『ボクと課長が【普通の恋人】になれるかどうかが分からないので、仮称で【恋人】という肩書きをお借りするだけです。だから、そのっ。つまり、お試しという意味で……っ』 『なる、ほど?』  よく、分からない。桃枝の顔にはハッキリと、そう書かれている。  だが山吹は、山吹なりに告白の返事をした。世間一般の恋愛観が分からないなりに、山吹は桃枝の好意に応じようとしたのだ。  桃枝とて、それは同じ。山吹の言葉を、桃枝の主観から解釈する。 『確かに、俺たちは【普通】とは価値観が違うのかもしれないな。それなのに、一方的に普通の恋人関係を求めたのは性急だったか。……悪かったな、山吹』 『い、いえ。ご理解いただけたのでしたら、幸いです』  ここでようやく、桃枝が物理的な意味合いで身を引いた。 『とりあえず、分かった。仮称で、俺たちの関係は【恋人】だ。これから、追々【恋人】について学んでいこう。……そういうことで、いいか?』 『は、はい。よろしくお願いします、課長……っ』 『あぁ、よろしく』  この状況で、山吹は思わず考える。  初めてできた、普通の友人のような相手。初めて桃枝を飲みに誘い、そうした相手を得られた瞬間の高揚感を、山吹は昨日のことのように思い出せる。  だからこそ、きっと。桃枝が相手ならば……。  ──もしかすると、それ以上の【なにか】を得られるのではないか。  どこまでいっても打算的で、利己的。山吹をそう叱責する者は、ここにはいなかった。 1章【好奇心は猫をも殺す】 了

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