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 ホテルを出て、その後。 「手首、痕にならなくて良かった……」  車の中でそう、桃枝は呟いた。  場所は、デートの集合地点。山吹が暮らすアパートの近くにあるコンビニの駐車場だ。  山吹はシートベルトを外しつつ、眉を八の字にしてみせた。 「ごめんなさい、課長。せっかくの脱童貞記念セックスが、ボクとのこんな内容で」 「別に、それはいい。驚きはしたが、後悔とかはねぇよ」  ハンドルに半ばもたれかかっていた状態の桃枝が、顔をそっと山吹に向ける。  そのまま桃枝は手を伸ばし、山吹の頭を撫でた。 「それに俺は、お前としかするつもりがない。だから、お前が相手ならなんだって変わらず『嬉しい』と思えたさ」  向けられた眼差しが、あまりにも優しい。夜だというのに、思わず目を細めてしまいそうになったほどだ。  さり気なく、山吹は自身の頭から桃枝の手を離す。 「キザなセリフですね、まったくもう」  ぷいっと、そっぽを向く。本気で怒っているわけでもないが、そうした方が得策だと判断したからだ。  ──容赦なく内側を突かれるよりも、手首を力任せに掴まれるよりも。……頭を撫でてきた今の手つきの方が、苦しかったなんて。  そう言ったらきっと、桃枝は困惑するのだろう。そのくらいの相違は、山吹にも分かっている。 「本当に、アパートまで送らなくていいのか?」 「はい、大丈夫です。さすがに誰もいないとは思いますが、ボクが住んでるアパートって会社から近いので。休みの日に私服で一緒にいるところを見られるのは、お互いにとっていいことではないじゃないですか」 「そうか」  今日はただ、桃枝を試しただけの日だった。振り返ると、山吹にとってはそんな印象の初デート。  だが、桃枝はどうだろう。……桃枝にとっては、どういった印象の一日だったのだろうか。 「今日は、悪かったな。行き先とか、そういうの。全部、お前に任せちまって」 「全然いいですよ。むしろ、ボクの行きたい所にただ連れて行っただけな感じがして、恐縮です。……つまらなかった、ですか?」  ここで、肯定をしてくれれば。きっと、山吹は普段と同じ笑みを浮かべられたのだろう。  だが、桃枝はいつだって山吹の期待と想像を超える。 「──いい思い出になった。だから、ありがとな」  今度は、頬を撫でながら。桃枝は、柔らかな笑みを浮かべた。……事務所では絶対に浮かべないような、優しい笑みを。 「それじゃ、気を付けて。……おやすみ、山吹」 「はい、おやすみなさい。課長も帰りの運転、気を付けてくださいね」 「あぁ」  車から降り、軽く手を振ってお見送り。車を発進させた桃枝は軽く手を上げた後、そのままコンビニの駐車場を後にした。  去って行く車を眺め終えた後。山吹は口角だけを上げたまま、俯いた。 「……ボクも、帰ろう」  振っていた手を、ジッと見る。思えばこうして、誰かをにこやかに見送った経験もない。 「なにやってるんだろ、ボク……」  ため息を吐き、それから山吹は顔を上げる。  目線を上げたところで、桃枝はもういない。それがどことなく空虚な気持ちにさせるのだから、やはりスッキリとしない不快な心地だった。

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