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 桃枝が好みそうな、可愛らしい提案。山吹は一歩だけ距離を詰めて、ジッと愛らしい眼差しを桃枝に向ける。  山吹にとって桃枝との恋人らしい関わりが一ヶ月振りなら、桃枝も同じ。久し振りの接近に、桃枝は露骨なほど動揺した。 「ち、近いぞ、山吹」 「嬉しいですか? それなら、もう一歩。……いっそ、膝にでも乗りましょうか?」 「そッ、それはここだと駄目だッ!」 「課長、しぃ~っ。声が大きいですよ?」 「わっ、悪いっ!」  まるで、立場が逆転したように。動揺を露わにする桃枝に迫りながら、山吹はニヤニヤと口角を上げた。  やはり、なんだかんだと言って桃枝を揶揄うのは楽しい。ここまで露骨に赤面されると、愉快で堪らなかった。 「ほら、お願い。なにかないんですか、課長?」 「おね、がい。お願い、か……」 「エッチなものでもいいですよ?」 「馬鹿かッ!」 「だから、声。大きいですよ、課長?」 「ぐっ!」  桃枝も桃枝で、揶揄われていると分かっているのだろう。それでも狼狽してしまうのだから、まだまだ山吹には到底敵わないが。  笑う山吹から視線を外し、桃枝は黙る。おそらく、願いというものを考えているのだろう。もしもこれが山吹相手ではなかったら、桃枝の沈黙を『揶揄われすぎて怒った』と解釈されそうだが。  数秒の、思考。それからすぐに、桃枝は顔を上げた。 「……願いなら、ある」 「あれっ、意外ですね。なんですか?」 「お前の部屋に、行ってみたい」  これはこれで、山吹としては予想外。小首を傾げつつ、願いを復唱する。 「ボクの部屋、ですか?」 「あぁ。お前の部屋だ。……別に、今日じゃなくてもいい。むしろ、いきなりは迷惑だろ。だから、いつかでいいから──」 「──今からでもいいですよ?」  サラッと、承諾。  山吹は決して、桃枝の願いを不快に思ったわけではない。純粋に驚いただけで、悪感情はなにも抱かなかったのだ。  即座に許諾された願いに、戸惑ったのはむしろ桃枝の方で。 「いや、さすがに今すぐは駄目だろ。掃除とか、他にも色々……困ること、あるだろ」 「や、全然ですよ? ボクの部屋にはなにもないので、掃除するほどのなにかとかはないんです」 「そうなのか?」 「そうなんです」  それでも、桃枝にはまだ引っ掛かることがあるらしい。山吹が小首を傾げると、桃枝は次なる引っ掛かりを口にした。 「だけどお前……俺を部屋に呼ぶところ、誰かに見られたくないんだろ?」 「別に、ボクは気にしませんよ?」 「はっ? けどお前、この前は……?」  一ヶ月前の、デート終わり。アパートの前まで送ると提案した桃枝に対して、山吹は断りという形で答えた。  その時に、山吹は『二人でいるところを見られたくない』といった趣旨の返答をしていたのだ。桃枝が納得していないのは、その時のことを憶えているからだろう。  桃枝の困惑に気付いた山吹は、すぐに言葉を重ねた。 「それは【ボク】じゃなくて【課長】が困ると思って」 「俺?」 「前に教えたじゃないですか。ボクの、ちょっとした噂」  ニコリと、笑みを添えて。 「──年下のクソビッチが好きなヘンタイ、とか。そういう噂に巻き込まれたら、課長があまりにも可哀想です」  山吹は、なんとも平然とした態度で答えたのだった。

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