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離れようとした、のだが。
「……いや、待った。でもなぁ……」
果たして、本当にそうなのか。山吹は足を止めて、考え直す。
桃枝は、看病を期待していない。むしろ、来てほしくないとすら思っているはずだ。……そう断定するには少々、パーツが足りなかった。
「クリスマスに失敗したばかりだし、先輩たちの話もあるし……」
完全に盲点だった、クリスマスプレゼント。それに加えて、山吹よりも遥かに【普通の恋愛】に精通している二人のテンション。桃枝は、果たしてどちらを信じるか……。
「……よし」
山吹はすぐに、事務所内にあるキャビネットへ向かう。
職員の情報を管理している【管理課】ならば、職員の住所を調べるなんて朝飯前。……いや、今なら『昼飯前』だ。管理課一年目の山吹でも、個人情報がどこに保管されているかは知っていた。
「課長の住所は、っと……。……げっ、徒歩圏内じゃないじゃん。行くなら電車かぁ……」
考えてみれば、桃枝はいつも車で通勤している。この距離は、想定内だったはずだ。
早くも揺らぐ、山吹の決意。大前提に、山吹は桃枝に対してそこはかとない怒りを抱いているのだ。
電車は、得意ではない。他人が大勢いる空間は苦手で、まるで他人の思考が流れ込んできそうな。電車に限らずそんな錯覚を起こしてしまいそうな場所が、山吹は苦手なのだ。
音、気配、視線。そうしたものが一気に、山吹を襲ってくるようで。内側の大事な部分を土足で踏み荒らされるような、無遠慮な空気が苦手だった。
それは、幼少の頃。痣だらけの母親に向けられた視線が不快で堪らなかったあの日から、少しずつ刷り込まれてきた【苦手意識】なのだが……。
「それとこれとは、なにもかもが課長には関係ないしなぁ……」
山吹が電車に苦手意識を抱いていようと、桃枝の看病とは関係ない。黙っておけば、桃枝だって気付かないだろう。
意を決した山吹は、すぐに桃枝の住所をメモする。公私混同も甚だしいが、誰だってこれくらいやるだろう。やるはずだ。『やる』と言ってほしい。
なんて言い訳を心の中で何度もしながら、山吹はストーカーじみた行為を隠蔽するかのように、個人情報が書かれた書類をもとの位置へ戻す。
これで、事前に必要な情報はしっかりと入手できた。残すは、帰りに夕飯の食材と看病らしい食べ物を購入すれば完璧だろう。昼休憩の時間を使って看病について調べれば、ミッション達成はほぼ目前だ。ほんの少し、山吹は誇らしげな気分になった。
体調管理を怠った桃枝は、果たして山吹になんと言うだろう。驚くか、それとも喜ぶか……。考えるだけで愉快だ。
山吹が自主的に看病をしに来たと知れば、どう見積もっても優位な立場にいるのは山吹となる。これほどハッキリとした差さえ見せつけてしまえば、どうとでも桃枝を責められるはずだ。
「あっ。先ずはご飯食べなくちゃ」
桃枝への怒りは残るが、それよりも今は、胸が躍る。
いったい、桃枝がどんな反応を見せてくれるのか。想像をすればするほど、山吹の胸はワクワクと期待感に弾んだ。
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