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 桃枝から抱き締められて、何秒──何分、経ったのだろう。 「そう言えば……まだ、ちゃんと言ってなかったな」 「なにを、ですか?」 「なぁ、山吹。こっち、向けるか?」  そろ、と。顔だけを動かし、背後にいる桃枝を見つめる。  そこで山吹は、思わず目を疑ってしまった。 「──来てくれて、ありがとう」  ……笑って、いるのだ。感謝を口にしながら桃枝は、笑っている。  柔らかく微笑まれて、温かな言葉を注がれて。……山吹の胸が、またしても痛んだ。  感謝をされる理由なんて、どこにもなかった。桃枝に話した通り、山吹がここにいる理由は【恋心】からではない。『山吹には分からないだろう』と馬鹿にされ、負けず嫌いな性質のつもりはないのに腹が立ち、周りが持つ山吹緋花のイメージに反発しただけ。  桃枝が求めているような根拠も動機もなく、八つ当たりのようにセックスを強要し、今だって抱き締めるよう求めた。真になにかを貰っているのは、間違いなく山吹の方だ。 『俺はあと何回、お前の優しさに救われるんだろうな。……あと何回、お前の眩しさに胸を打たれるんだろうな』  不意に、思い出す。桃枝が、山吹に向けた言葉だ。  言われた時には引っ掛かりを感じただけで、違和感を抱いただけで終わった言葉。それでも、今では変わった気がした。  ──その言葉は桃枝ではなく、山吹が伝えるべきだったのに。……と。  なにも言えず、なにも返せず。山吹は黙って、桃枝から顔を背けた。まるで、逃げるように。  ……背中に、温もりがある。この感覚は、久し振りだ。  誰かとくっついて、誰かの体温を感じながら眠るなんて。こんなこと、亡き父親への裏切り行為だろう。  物分かりが悪いばかりに手間をかけさせて、それでも愛情によって『相手の迷惑を考えろ』と、父親は教えてくれたのに。現状の山吹は、どう見ても父親の教えに反しているだろう。  それでも、山吹は言い訳をする。『自分から触れていないのだから、これはセーフです』と。 「……まだ、暑いですか?」 「まぁ、多少。……なんだ、お前こそ暑いのか?」 「いえ……。……っ」  言葉が、詰まる。この先を、口にしていいのか。  どうか、どうか、お願いします。山吹は心の中で何度も何度も頭を下げ、乞い、願って。そして、ようやく……。 「──うれ、しい……で、す」  亡き父親に『届かぬように』と心の底から縋りながら、本心を口にした。  どうしても離れない父親の残像に、体が震える。その震えをどう解釈したのか、桃枝の腕に力が籠った。 「そうか。俺も、嬉しい」  それは【山吹を抱き締めている現状】に対してなのか、それとも【看病に来てくれた状況】に対してなのか。真意が、分からなかった。  依然として看病に対するロマンが分からなければ、恋人らしい振る舞いのひとつも分かっていない。  それでも、こんな愚かさによって救えるものがあるのなら……。 「課長、知っていますか? バカは風邪、引かないんですって」 「そうかよ。お前が明日以降どうなるのか、楽しみだな」 「ボクは風邪なんか引きませんよ。だって……」  自分が馬鹿でいる結果、桃枝を救えるのだとしたら。それも存外、悪くはないと。 「課長と違って、自己管理が徹底していますもん」 「そうかよ。そりゃ、心配して悪かったな」  山吹は冗談交じりの言葉で、生まれたばかりの温かな優しさに蓋をした。

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