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 翌朝。土曜日だというのに、山吹はいつもの休日より少しだけ早く目が覚めた。  それでも、いつもより寝覚めはスッキリとしている。それに、ぐっすりと眠れた気もした。 「か、ちょぅ……?」  寝起き独特の、か細く弱い声。山吹は特になんの意味も込めずに桃枝を呼びながら、すぐに後ろを振り返る。  どうやら、桃枝はまだ眠っているらしい。山吹を抱き締めたまま、規則正しい寝息を立てている。  意識が徐々に覚醒してきた山吹は、すぐに桃枝の腕を見た。自分が、触れてしまっていないかと確認するために。 「……よ、かった。手も腕も、触ってない……っ」  父親の教えを踏みにじっているのか、守りたいのか。山吹自身も理解できていないが、それでも『触っていないのでセーフだ』と、まるで痴漢の有無じみたことを考える。  山吹はなんとか身をよじり、桃枝と向き合う。そのまま、桃枝の首筋に顔を近付けた。 「おはようの、ちゅーですよぉ」  唇を寄せ、桃枝の首筋に吸い付く。パッと唇を離せば、桃枝の首には赤い印が付いた。  いわゆる、キスマーク。桃枝の首に所有印を付けられた気になり、なぜだか楽しい。 「起きないなら、イタズラ……続けちゃいますよ」  囁きながら、山吹はもう一度、桃枝の首筋に唇を寄せた。  ふたつ、みっつ。桃枝の首にキスマークを増やしていると、不意に。 「……ん、っ」  ピクッ、と。山吹を抱き締める桃枝の体が、小さく身じろいだ。  寝起きだからか普段以上に眉間の皺を深く刻みつつ、ようやく桃枝は瞳を開いた。 「や、ま、ぶき……っ?」 「おはようございます、課長。寝顔、カワイかったですよ」 「アホが……。お前のその笑顔の方が、可愛いっつの。……おはよう、山吹」  そう言いながらも、なぜだか桃枝は驚いている様子だ。 「なんでそんなに驚いてるんですか?」 「目覚めに好きな奴の顔がドアップであったら、誰だって驚くだろ」 「そういうものですか?」  理由は分かり易いものだったが、山吹には分からない。 「ですがきっと、課長は鏡を見た方が驚きますよ」  付けられたばかりのキスマークに、桃枝は気付いていなかった。笑う山吹を『可愛いな』と思いながらも、言われている意味が分からないから眉を寄せるしかない。 「まだ寝ていてもいいですよ。コーヒーでも淹れておきますから、ゆっくり起きてください」 「いや、いい、起きる。……お前、朝はコーヒーを飲むのか?」 「いいえ、飲みません。苦くておいしくないから、苦手です」 「そうか。……今日も、可愛いな」 「ありがとうございまーす」  インスタントコーヒーの置き場所も、マグカップの場所も昨日知った。仕事中に桃枝がブラックコーヒーを愛飲していることも知っているからこその提案だったのだが、どうやら今の会話でなにかがお気に召した様子だ。 「けど、もう少し……このままでも、いいだろ」  それでも、コーヒーより山吹の方が好きらしい。昨晩はあれだけ渋っていたくせに、今は『手放したくない』と言いたげなほどしっかりと、山吹を抱き締めている。 「もう、仕方ないですね。じゃあ、あと五分だけですよ」 「休みの日くらいダラダラしたっていいだろうが」 「魅力的な提案ですが、ボク、昨日は自分の部屋の家事をなにもしていないので気が気じゃないんです」 「家庭的なんだな。惚れ直した」  ベッドの上でうだうだと時間を浪費している桃枝を見つめて、山吹は微笑む。  こうして抱き締められている中、振り払おうとしていないのだ。山吹だって、だらけている桃枝と同罪だろう。  それが不快でもなく、むしろどことなく誇らしいから。山吹は、笑うしかなかった。

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