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4.5章【魚心あれば水心】 1

 桃枝の風邪が治った、その週の金曜日。 「あの、課長。ホントにボクがお支払いしなくていいんですか?」  山吹が、斜め前を歩く桃枝にそう訊ねていた。  二人がいる場所は、交際前によく通っていた居酒屋の駐車場だ。桃枝の車に向かいつつ、山吹は財布を手に持っていた。 「いいっつの。年下で尚且つ部下に奢られるなんてのは、屈辱的だろ。と言うか、屈辱的なんだよ。だから、断固拒否だ」 「だけど、今日のボクは【課長の快復祝い】的な気持ちなのですが……」 「お前、そんな気持ちで俺の誘いに応じたのかよ」  助手席に座った山吹を見て、桃枝は静かに驚愕する。  交際を始めてから、桃枝は一度も山吹を食事に誘えていなかった。なんとなく、緊張してしまったからだ。  しかし、よくよく思い出してみるとどうだろう。交際する以前から、飲みの誘いはほとんどが山吹からで、思い返せば桃枝からのアクションはあまりにも頻度が少なかった。  そう気付いた桃枝は、山吹との関係性を少しでも発展させるためにと居酒屋へ誘ったのだが。……どうやら今日も、山吹との距離は縮まらなかったようだ。  桃枝は【デート】という意味合いで誘ったつもりだったが、山吹の意識は交際前とさほど変わっていない。二人で居酒屋へ赴くことに、山吹はなんの特別性も抱いていないのだ。 「だって、二人で居酒屋に行くなんて久し振りじゃないですか。てっきり『俺は元気だぞ!』というアピールかと思ったのですが……違いましたか?」  それどころか、妙にめでたい理由を掲げられている始末。山吹の中でいったい、桃枝白菊という男はどんな像で描かれているのだろう。謎だ。 「あのな、山吹。俺はお前を【恋人として】誘ったんだ。つまり、そんな訳の分かんねぇ健康自慢じゃなくて、ただのアプローチだっつの」  たとえ山吹に一切の脈がなかろうと、桃枝は山吹に脈しかない。多少ガツガツしていると思われるくらいのアピールをしないと、おそらく山吹は『桃枝から恋愛的な意味合いで好かれている』と忘れてしまう。恥もプライドも、掲げている場合ではなかった。  案の定、山吹は「アプローチ……」と呟いている。まるで、初めて聞いた単語を復唱しているかのようなテンションだ。  なぜこうも、山吹は自身に向けられる好意に疎いのか。自分自身の魅力には自信があるくせに、妙な話だ。……そこまで考えて、桃枝は気付く。  難があるのは、山吹に限った話ではない。問題は、桃枝にだってあるのだ、と。  仮とは言え交際を始めて、桃枝は正直、浮かれていた。だからこそ桃枝は『浮かれている』と悟られないよう、平静を装っていたのだ。  しかし結果として、山吹を怒らせた。『構ってほしい』と言わせてしまい、あまつさえ『桃枝を信じられなくなりそうだ』とまで言わせてしまったのだ。  強引な男だと思われたくなく、適切な距離感も分からず、結果として【放置】と取られる行動を示した。仮の恋人関係を解消されないだけ、奇跡だろう。 「格好つけさせてくれよ。……だから、財布はしまってくれ」  山吹と何度か本音を話し合い、徐々にではあるが確実に距離を詰められているはず。残り桃枝に足りていないのは、圧倒的にアプローチ力だ。  山吹との付き合いで、桃枝は受け身になりすぎていた。今後はより積極的にアプローチをし、先ずは『桃枝の好意は本物だ』と思ってもらいたい。……以上が、桃枝が現在抱えている展望だ。 「……分かり、ました。それでは、お言葉に甘えて……」  若干不服そうではあるが、とりあえず理解してくれたらしい。山吹は財布をしまい、桃枝に感謝の意味で頭を下げた。  まだまだ、山吹と桃枝の間には【理解】という壁がある。この壁をどう壊していくべきなのかは手探りだが、一先ず……。 「ごちそうさまでした。今日も、課長との食事は楽しかったです」  山吹が『楽しい』と思える時間を、提供できている。その事実が嬉しくて、桃枝は思わず、山吹の頭を優しく撫でてしまった。

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