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 そうして迎えた、ビッグなイベント当日。山吹は落ち着かない気持ちを抱きつつ、事務所に出勤した。  同じ管理課の職員に挨拶を送りながら、山吹は一先ず、自分のデスクに着席。少しでも普段通りの自分になろうと、デスクの引き出しから処理をしていない書類を取り出そうとした。  すると、山吹の手がピタリと止まる。……引き出しの中に、見覚えのない物が置いてあるのだ。  細長い箱が、ポンと置かれている。包装紙には、付箋紙が一枚貼られていた。  付箋紙に書かれているのは、走り書きのような字体による『ハッピーバレンタイン』のみ。きっと贈り主は気恥ずかしさから、手早くこの言葉を書いたのだろう。  山吹に、こんなサプライズを仕掛ける相手は一人だけ。堪らず、山吹は勢いよく引き出しを押した。 「えっ! ど、どうしたの、ブッキー?」 「わわっ! なっ、なにがですかっ?」 「いや『なにが』って。……今、凄い音したでしょ? 凄まじい勢いで引き出しを押したでしょ?」 「──気のせいじゃないですかねっ!」 「──今の音が気のせいだったらこっちは相当ヤバい聴力の持ち主になっちゃうんだけど!」  そんなこと、山吹の知ったことではない。たまたま後ろを通りがかった職員を【聴力に難あり】と決めつけ、山吹はどうにか誤魔化す。  ショックを受けた職員が去って行く中、山吹はコソッともう一度、引き出しの中を確認した。  ……やはり、なにかが置いてある。おそらく──確実に、贈り物だ。  ──山吹がギリギリの日数で気付き、気合いを入れていたイベント。【バレンタイン】のプレゼントが、引き出しの中に鎮座している。  差出人は、どう考えても桃枝だ。付箋紙の端に桃枝の印鑑が押してあるところを見ると、言い逃れができないほどの信憑性がついてきた。  どこまでも、業務連絡じみている。包装紙のシンプルさも相まって、どこまでも桃枝らしい贈り物だった。 「……っ」  ジワジワと、頬に熱が溜まっていく。山吹は引き出しをそっと押してから、チラリと視線を移す。  桃枝と目が合ったら、どんな顔をしたらいいのだろう。そう思いながらも、山吹は桃枝が座っている課長席へと目を向けて……。 「……あれ?」  視線の先に誰もいないと、ようやく気付いた。  キョロキョロと、事務所内を見回す。しかしどこにも、目当ての人物がいなかった。  そこに、先ほどとは別の職員が近寄る。 「ブッキー、おはよ~。……って、どうしたの?」 「あっ、おはようございます。……あの。今日って、課長は?」 「桃枝課長? 今日は朝の九時から会議があるから、出張中ってことでいないけど?」 「会議……」 「終わるのは昼くらいだけど、午後からまた別の会議があるんだってさ」  つまり、今日は一日中不在ということだ。そう説明されてようやく、事務所内の雰囲気が妙に落ち着きがないと気付く。  てっきり、バレンタインだからかとも思ったのだが……どうやら、違ったらしい。 「そう、ですか」 「もしかして、急ぎの用事? 係長じゃ分かんないかな?」 「あっ、いえ。課長じゃないとダメなので、いいです。大丈夫です」 「ブッキーって、サラッと相手を突き放すときあるよねぇ」  ニコリと笑みを浮かべて返事をした後、山吹はパソコンに向き直った。  会議ならば、仕方がない。課内のスケジュールを把握していなかった自分に落ち度がある。今回は、桃枝に非がない。  そう理解しつつ、山吹は普段から使っている鞄をそっと撫でた。

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