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さっきまで、あんなに嬉しそうな顔をしていたのに。どうして今、桃枝の表情は普段と同じく──普段以上に、硬く鋭いものになっているのか。
意味も理由も、分からない。さすがの山吹でも、今の桃枝を翻訳できそうになかった。
「課長? あの、お顔が怖い、ですよ?」
「悪かったな、生まれつきだ」
確かにそうではあるのだが、そうではない。いくら通常の顔つきが威圧的だとしても、今はまるで。
……怒りを、向けられているような。そんな気がしてならなかった。
桃枝は山吹から視線を外すと、すぐにチョコが入った包みを鞄の中にしまいこむ。それから、デスクに置いていた書類をどこか乱暴な手つきで整頓した。
「チョコ、ありがとな。……それじゃ」
「えっ? あの、課長っ?」
「言っただろ。飲み会があるんだよ」
その目はもう、山吹を見ていなくて。
「帰るなら電気、消し忘れるなよ」
声を出している理由も、言葉を伝えている相手も山吹なはずなのに。桃枝はそのまま、振り返ることもなく、事務所から出て行った。
桃枝がいなくなった事務所に一人、山吹は残される。
「……課長、どうかしたのかな」
去り際の、顔。なにかに落胆したような、傷付いたような。……怒ったような顔を、桃枝は浮かべていた。
「チョコの後味、悪かったのかな」
バレンタインに気付いたのは、あまりに遅くて。練習期間が少なく、山吹としてもチョコの完成度に大満足とまでは言えない。
それでも、味に自信がないわけではなかったのだが……。
「ヤッパリ、飲み会前だからメーワクだったかな……」
自分の準備不足や配慮不足に、ほとほと嫌気が差す。何事も器用にできるタイプだという自負があったのだが、今回に限っては自業自得な大敗だった。
「ボクも帰ろう」
チラリと、桃枝のデスクに目を向ける。
桃枝の不在中、乱雑に置かれた書類をクリアファイルにまとめたのは山吹だった。桃枝はそのことに、きっと気付いていない。
作ったチョコの形が、ただの丸だったこと。桃枝が喜ぶとは百も承知だったくせに【ハートの形】をなぜか作れなかった山吹に、桃枝は気付いていない。
それでも、山吹は良かった。『そうした方がきっと、外聞はいい』という打算まみれな理由ではなく、ピンポイントで【桃枝のために】なにかができたから。
ハートの形を生成しようとすると手が震え、頬に熱が集まった理由が分からなくても。それでも山吹にとって、バレンタインにチョコを渡せた自分を褒めたかった。
「お疲れさまでした、っと」
誰もいない事務所に声をかけてから、山吹は電気を消す。
こんな時間まで一人で残っていたのは初めてで、だからこそ山吹は不要なことを考える。
「いつも課長は、こんな気持ちで帰ってたのかな」
どこか寂しいような、しかし達成感のような。そうした、ほんのりと特別な気持ちを抱いて。
いつも事務所に最後まで残っている桃枝の気持ちに少しだけ近付けたような気がして、またしても山吹の口角は薄く上がってしまったのだが。それに気付いた者は、誰もいなかった。
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