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 ガサッと、袋が揺れる音。桃枝はどこかで買い物をしてきたのか、手には買い物袋が握られていた。  空いている、もう片方の手。片腕で山吹を抱き締めながら、桃枝は囁く。 「押しかけて、悪かった。迷惑かけて、ごめんな」  まるで、握り潰されたのではと。そう錯覚してしまいそうなほど強く、山吹の胸が痛む。  違う。山吹は、桃枝を責めたいわけではなかった。ただ、桃枝に風邪を移したくなくて……ただ、桃枝に叱られたくなくて。だから、不必要なほど強い言葉を遣ってしまっただけで。  抱き締め返すことすらできないのに、昨晩の失態を謝れてもいないのに。それなのにどうして、こんなにも……。  ──こんなにも、温かい気持ちになってしまうのか。山吹にはなにも、分からなかった。 「……風邪を、引いたこと。怒って、ないんですか?」 「なんで怒るんだよ。体調を崩すなんて、仕方ないことだろ」 「一方的に、通話を切りました。冷たいことを、言いました。……課長を、傷つけました」 「勝手に電話をかけたのは俺で、こうして押しかけてるのも俺だ。お前は被害者だろ」  どうして、そんなことを言うのだろう。通話に応じたのは山吹で、扉を開けたのだって山吹なのに。  手が、震えた。それは寒気からではなく、迷いからだ。  咄嗟に、桃枝へ抱き着いてしまいそうになって。理性が働いているうちに、山吹は必死になって、桃枝の胸を押し返した。 「やめて、ください。優しく、されたくないんです」 「『優しい』? どこがだよ」 「あ、っ」  今度は、より強引に。桃枝の腕が、山吹を抱き寄せて離さない。 「嫌がるお前を無理矢理抱き締めて、勝手に世話を焼こうとしてる。そんな俺の、どこが『優しい』だよ」 「……っ」 「ぞんざいに扱えよ、俺のこと。俺は悪い奴なんだから、それくらいの扱いが丁度いいだろ」  胸が、締め付けられる。  善人が、必死になって悪人になろうとしているようで。今の桃枝は、どう見たって【悪人】ではない。酷いことをされるべき人間では、決してないのだ。  山吹は唇を震わせて、悩んで。頭に思い浮かんだ言葉を何度も何度もデリートして、ようやく。 「課長、ボク……。ボク、お腹が……空き、ました」  ──桃枝が、欲しい言葉を。……山吹の気持ちを、素直に伝えた。  背に回されていた桃枝の手が、俯いた山吹の頭を撫でる。 「それはなにより。買ってきたものが役に立ちそうだ」  優しい声と手つきに、山吹は反射行動のように身を引く。  ……甘えて、しまった。こんなところ、もしも父親に見られたら。山吹の顔が、体調不良とは違う理由でサッと青くなる。 「……ご、ごめん、なさい。ボク、今のは、違くて……っ」 「山吹」  名を呼ばれたから、恐る恐る顔を上げた。どんな罰でも受けようと、怯えを押し殺して桃枝を見つめる。 「俺は怒ってなんかねぇから、そんな顔するな。お前はなにも悪くないんだから、自分を責めるなよ。……な?」 「……っ」  体が、震えた。これも、体調不良とは理由が違い……。  山吹は慌てて桃枝から顔を背け、距離を取る。そのまま踵を返し、山吹はこの状況をどうにか変えようと、部屋に戻ろうとした。 「あ、の。……ちょっと、待っていてください。……マスクを、するので」 「随分と今さらな気遣いだな」  桃枝を、こうして部屋に招くなんて。一言では言い表せそうにない感情を持て余したまま、山吹は桃枝を一度、玄関で立ち止まらせた。

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