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 恐る恐ると言いたげな様子で、山吹は桃枝に目を向ける。  てっきり、睨まれているのかと。バレンタインの夜同様、冷たい目を向けられているのだと思っていた。  だが、違う。桃枝の目つきは相変わらず悪いにしても、それは昨晩のように【睨もうとして睨んでいる】わけではなかった。 「……そこは『絶対に怒らないから』くらい、言ってほしいものです」 「悪いな。嘘になり得ることは言いたかねぇんだよ」  こんな軽口を返せるくらいには、普段の桃枝だったから。山吹はマスクの下で、意味があるのか分からない小さな深呼吸をして……。 「──課長の、初めての恋人がボクなんかじゃ……可哀想、です」  分かり切っていた答えを、ようやく口にした。  一度伝えてしまえば、後は楽なものだ。山吹は桃枝から視線を外して、続く言葉を告げる。 「【仮】が付いていれば、課長が初めてオツキアイした人はボクじゃなくなります。課長はキレイなまま、ステキな人と一緒になれます。……ボクみたいなヤリチンビッチでワガママ三昧なダメ男のせいで、課長の未来を損ないたくないんです。ボクなんかを選んだなんて、課長の未来の恋人さんに知られるべきではないんです。だから、だからボクは……課長との関係を【仮】にしたいんです」  いつだって山吹は、保身だらけの狡い男だった。  それでも、この関係は。いつからか、自分に対する保守的な言い訳として【仮】を遣わなくなっていたのかもしれない。  自分は、どうだっていい。山吹のことを『好き』と言ってくれる酔狂な相手は、後にも先にも桃枝だけに決まっている。ならば山吹が背負う【初めての恋人】なんてレッテル、どうだっていいのだ。  だが、桃枝は違う。桃枝は不器用なだけで、性根はいい男だ。山吹のような歪んだ男と、同列視してはいけない。  山吹の答えを聴き、桃枝はきっと驚いたのだろう。 「俺の、ため……?」  声に、困惑が滲んでいるのだから。  こんな話、寝転がってするものではない。そう思い直した山吹は、上体を起こした。 「ごめんなさい、課長。傷付けてしまうとしても、それでも……課長の未来を、奪いたくないんです」 「分かった。分かったから起き上がるな」 「心配してくれて、ありがとうございます。だけどボクは、課長に謝罪を受けてもらいたいんです。本気だって、分かってもらいたいんです」 「ちゃんと伝わってるっつの。だから、横になれ」  起き上がり、頭を下げただけ。それなのに桃枝は慌てて山吹の肩を押し、強引に寝かせた。  視界に映る桃枝は、複雑そうな表情をしている。どんな感情なのか、イマイチ読み取れない。 「お前の考えは、分かった。こだわる理由も、分かった。けどな、ヤッパリ駄目だ。二度と【仮】なんて付けないでくれ」 「どうして、ですか。これは、課長のため──」 「──逆だろ、普通」  山吹の瞳が、揺れる。 「──俺のためを想うなら、なおさら【仮】なんて付けないでくれ。俺の初めてを、お前にさせてくれよ」  桃枝が、悲し気な表情をしていたから。懇願するように、縋りついてきたから、つい。 「なんで、そんな顔……っ」  桃枝が怒った顔は、当然だとして。……それよりもさらに、悲しむ顔は見たくなくて。  山吹は自分の立場も考えずに……堪らず、泣きそうになってしまった。

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