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自ら人に抱き着くなんて、山吹にはできない行為だ。それを、桃枝は知っているはずだった。
桃枝の提案に、山吹がどんな顔をするか。分からないほど、桃枝は鈍くないと信じたい。
山吹の表情が、まるで絶望をたたえたかのようなものに変わる。顔色が急激に悪くなった山吹を見て、桃枝は頬を撫でた。
「別に、甘えるための行為じゃない。こういうの、なんて言うんだったか……セーフワード? みたいなやつだ」
「だったら別に、抱き着かなくたっていいじゃないですか。ベッドを叩いて意思表示でも……」
「それ以外のサインは認めない。お前がしたくないなら、キスはここまでだ」
キスをし始めたのは桃枝のくせに、なんて横暴なのだろう。山吹はムッと、心の中で小さな憤りを育てる。
「どうする? お前の選択を、俺は尊重するが」
ギッ、と。ベッドの軋む音が鳴った。山吹が寝そべるベッドに、桃枝が乗りかかった音だ。
答えを、確信している。だからこそ、桃枝はベッドに乗った。
悩んで、考えて、悩んで。今度は山吹が、露骨なほど逡巡し始めた。
その様子を至近距離で眺めながら、桃枝は助言のように囁く。
「お前は優しくされて、その後で裏切られるのが怖いんだろ? だったら、俺相手に怯える必要はないんじゃないか?」
「それって、どういう意味ですか?」
「俺は、お前を傷つけたくない。だから、お前が思うような裏切りをしない。……俺は嘘が嫌いだ。だから、この言葉を嘘にはしない」
あまりにも、卑怯な囁きだ。山吹はぐっと、言葉を詰まらせた。
付き合い始めの頃は山吹のことを放置して、寂しい思いをさせたくせに。いくら交際の距離感が分からなかったとしても、あれはあんまりだった。山吹は咄嗟に、反論をしかける。
しかし、桃枝は山吹が寂しがっているなんて思っていなかった。山吹にとっての桃枝が、それほどの価値を抱かれていると思っていなかったからだ。
つまり、きっと。……この言葉は、あの頃とは違うはず。
山吹がどんな男なのか、今の桃枝はあの頃よりは分かってくれているはずだ。山吹にとって【抱き着く】という行為が、どれほど恐ろしいものかを知っている。
だから、ようやく山吹は……。
「……仕方なく、です。これは、違いますから……」
「あぁ、分かってるよ」
──数年ぶりに、自ら誰かへと抱き着いた。
まるでご褒美かのように、桃枝からキスが贈られる。優しくて、温かな気持ちが注がれるようで……。いったい桃枝はこんなキスを、どうやって覚えたのか。浮気を疑いたくなるほどの上達ぶりだった。
舌が、絡み合う。求められると嬉しくて、求めると返してくれるのも嬉しくて。山吹は夢中になって、桃枝とのキスを堪能する。
それでも苦しくなると、山吹は桃枝にしがみつく手に力を込めた。
「は、ぁ。……か、ちょ……っ」
「あぁ。もう一回、だな」
「んっ」
顔が離れて、酸素を取り込む隙間をくれる。見つめて、呼んで……そうするともう一度、桃枝はキスをしてくれた。
なにかが、満たされていく。こんな感覚は、初めてだ。手作りのチョコを食べて喜ぶ桃枝を見た時と、似た感覚だった。
フワフワして、ポカポカして。……まるで、その感覚は。
「はっ、ぅ。……課長、もっと……もっと、キス……っ」
──幸福、と。そう、呼べそうだった。
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