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6章【虎から逃げて、鰐に会う】 1
三月に入り、管理課は繁忙期を迎えていた。
決算月ということもあり、事務所内は普段よりもどことなく騒がしい。さほど大きな仕事を頼まれていないはずの山吹でさえ、卓上カレンダーのスケジュールが埋まっているほどだ。
だが、部下が慌てふためいているからか。いつもはパワハラだなんだと言われている桃枝も、最近はとても穏やかで──。
「オイ。俺は先週の内に『部長が三日間の出張に出るから、回す書類は早く作成しろ』って言ったよな? なのに、なんで今になって先週決まった話を回覧してるんだ? あァ?」
……なんてことはなく、普段通りだった。
多忙さに左右されていないと言えば、聞こえはいいだろう。精神的に余裕がなくなり気味な部下からすると、堪ったものではないが。
「申し訳、ございませんでした……っ」
決裁書類を渡し終えた主任職の男は顔面蒼白になりながら、桃枝のデスクを離れる。それからコソッと、山吹が座るデスクに近付いた。
「ブッキー、ブッキー。さっきの課長の説教、翻訳とかしてもらえるかな?」
「そうですねぇ。『なんで先週の内に決裁書類を回さなかったんだよ、俺の忠告は無視か?』ってところじゃないですか?」
「やっぱり普通に怒ってたよね! あぁぁなんで後回しにしちゃったんだろう! ごめんなさい!」
「いや、ボクに謝られても」
自責の念に打ちひしがれている主任を見て、山吹は苦笑いを浮かべる。口調は強いが、どう考えても桃枝の指摘が正しいからだ。
「でもでも、忙しかったんだよ! ブッキーはデスクが近いから、こっちがてんやわんやしていたのが見えたよねっ?」
「えぇ、まぁ。デスク周りが汚いのはいつも通りですけどね」
「今日のブッキー辛辣すぎないっ?」
こちらに言い訳をされても困るだけで、辛辣にしようと努めているわけではない。忙しさを言い訳に使うのは感心しない、という冷めた気持ちもあるが。
すると、山吹は背後に人の気配を感じた。
「先週の書類を今日になって提出してくる奴は、随分と時間配分に自信があるみたいだな。部下を捕まえて仕事の妨害か?」
「ヒッ! もっ、桃枝課長っ! えっと、えと……じっ、自分の仕事に専念いたします!」
「当たり前のことをわざわざ言ってんじゃねぇよ、それこそ時間の無駄だろ」
「ヒィッ!」
主任、敬礼。のちに、自分のデスクへ向かう。不本意ながら巻き込まれた山吹は「あははー」と乾いた笑いを送りつつ、主任が去っていくのを視界の端で眺める。
桃枝の発言が聞こえていた事務所内は案の定、凍り付いていた。普段通りなのは桃枝本人と、桃枝の人間性に慣れている山吹だけだ。
それでも、このまま事務所内をピリつかせ続けるのはよろしくないだろう。山吹は顔を上げて、不機嫌そうに表情を強張らせている桃枝を見つめた。
「課長。ボク、そこまでスケジュールが圧迫されているわけではないので雑談くらい平気ですけど」
「就業時間中に雑談をするのが先ずもっておかしいだろ」
「じゃあ、課長はどうしてこっちに来たんですか? ボクと雑談をしたいから来たんじゃないんですか?」
「違うに決まってんだろうが。提出書類の修正指示だ。この書類データを今すぐ開け」
ピリピリしている。多忙さが所以なのか、それとも山吹と他の男が話していたからなのか……。おそらく前者が八割、後者が二割だろう。山吹は両手を合わせて、ニコリと笑顔を浮かべる。
「わぁ~いっ。課長自らご指導いただけるなんて、恐悦至極に存じます~。ボクって、すっごく幸せ者だな~っ。嬉しいなぁ、えへへ~っ」
「……いいから、さっさとデータを開け」
今、桃枝は内心で『今日も山吹が可愛い』とでも考えたのだろう。会話の間から、そんなオーラを感じた。
今日も、桃枝専用翻訳機は絶好調。山吹は隣に桃枝を侍らせ──もとい、監視されつつ、データの修正作業に着手した。
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