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 本来、山吹は自分の喜怒哀楽を巧く飼い慣らせるタイプの人間だった。  嬉しいことがあっても大きくはしゃぐことはなく、悲しみも周りに気付かせない。怒りなんて当然で、山吹は誰に対しても一定のテンションを保ち続けられる男なのだ。  それが最近、桃枝限定で少し乱されていただけ。動揺するようなことさえ起きなければ、山吹は平然とした態度で桃枝とだって接せられるのだ。 「今さらですけど、明日から監査ですよね? 外部から監査士が来て、書類とかを見てもらって……。それなのに前日の今、ボクとご飯を食べていていいんですか?」  だから、山吹は今日も普段通りの山吹を見せる。桃枝に対する感情に戸惑っているなんて、毛ほども表さずに。  落ち着きを取り戻した桃枝は焼き鳥を齧ってから、言葉を返す。 「できる準備は前からしていたからな。今さら慌てることなんてねぇよ。後は明日、書類を会議室に運ぶだけだ。……それに、大変なのは明日からだろ」 「指摘事項があったときの対処、ですよね? 偉くなると大変ですね」 「確かに面倒な部分もあるが、指摘されて会社がいい方向に変われるなら悪い話でもねぇだろ。……面倒ではあるがな」 「ホント、偉くなると大変ですねぇ」  面倒なのも、悪い話でもないのも。どちらも、桃枝の本心だ。なんて素直な男だろうか。嫌いではない。  本当に忙しいのは来月だが、課長職ともなるといつだって忙しいのか。桃枝の眉間に皺が常時刻まれているのも、納得しそうだった。  珍しく本心から同情していると、おしぼりで手を拭いた桃枝がなんてことないような態度で口を開く。 「──あぁ、そうだ。お前は直接関わることなんてないとは思うが、一応言っておく。明日から来る監査士とは、あまり関わるなよ」  さも当然と言いたげに、平然とした口調。しかし山吹からすると、桃枝らしからぬ意外な忠告だった。思わず、目を丸くしてしまうほどに。 「それは、嫉妬ですか? それとも、ボクが【見境なく誰とでも寝るという前科持ち】だからですか?」 「どっちも違うっつの。妙な私情を挟むな」  桃枝こそ、山吹に妙な忠告してきたのは私情からではないのか、と。思わず揚げ足を取りたくなったが、黙っておこう。山吹は笑いながら「すみません」と形だけの謝罪をし、続く言葉を待った。 「監査士──特に、黒法師(くろほうし)って奴とは関わるな。と言うか、ソイツだけ注意しろ」 「黒法師さん、ですか。その人は課長と、お知り合いなんですか?」 「そうだ。だから、気を付けろよ」 「よく分かりませんが、了解です」  他人のことでとやかく言うなんて、珍しい。いったい桃枝と黒法師は、どういう関係性の相手なのだろうか。 「ちなみに、黒法師さんは男性ですか?」 「あぁ」  分かってはいたが、黒法師は同性らしい。去年の監査でなにかあったのか、それとも。……もしかすると、元カレか。  いや、それはない。前に、桃枝は山吹にこう言ったのだから。 『──俺のためを想うなら、なおさら【仮】なんて付けないでくれ。俺の初めてを、お前にさせてくれよ』  ならば、山吹以外に桃枝と【そういった関係のある相手】は、いないはず。黒法師と知り合いであったとしても、深い間柄ではないはずだ。  ……だが、それならどうしてわざわざ、こんなにも桃枝らしくない忠告を? 「分かりました。黒法師さんには自分から声をかけないようにします」 「あぁ、頼む」 「頼まれましたー」  疑問は、多く残る。それでも山吹は『なにも感じていません』といった様子を見せて、笑みを浮かべた。  なぜ、こんなことを考えているのか。自分の思考がおかしな方向に動き出した理由を、山吹は追及したくなかった。

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