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 苦しそうな表情を浮かべて、桃枝が首を絞めてきている。  いったい、どちらが首を絞められているのか。思わずそう考えてしまうほど、悲痛な表情だ。 「は、ッ。……ぁ、く……ッ!」  桃枝にそんな顔をさせているのは、山吹で。桃枝がこんなことをしてしまうのには、必ず理由があるのだ。  桃枝は、怒っている。山吹に対して、どうしようもないほど。怒りを原動力にし、怒りによって理性を剥奪されない限り、桃枝のように優しい男が愛する山吹の首を絞められるはずがない。  明確な、怒り。殺意にも似た手付きを感じながら、山吹は……。 「あ、ぁ……ッ。……ふ、ぅ……ッ」  どうしようもないほど、安堵していて。救いようがないほど、落ち着いた気持ちで桃枝と向き合ってしまっていた。  やはり、桃枝とは不釣り合いだ。そんなこと、誰かに言われるまでもなく理解していた話だっただろう。  首を絞められ、明確な怒りを向けられて。そうして破壊衝動を向けられてようやく安心し、身を委ねられる。……そんな山吹が、桃枝とお似合いなわけがない。  桃枝の息遣いが、徐々に荒くなる。これは純然たる怒りなのか、他のなにかなのか……。分からないまま、山吹は体を震わせた。  山吹は甘い吐息を漏らしながら、桃枝の手首にそっと手を添えて。 「は、ふ……っ」  柔らかく、笑ってみせた。まるで天使のように、愛らしく無邪気に、笑ってみせたのだ。  首に回された両手の力が、さらに増す。遠のきかける意識の中、山吹はぼんやりと考えてしまう。  このまま、いっそ。不穏なことを思い描いた、その瞬間。 「……ッ、クソがッ!」 「ゴホッ!」  桃枝の手が、山吹の喉から離れた。  反射的且つ生理的に、山吹は酸素を必死に取り入れ始める。激しく咳き込みながらも、山吹は生理的に生き永らえようとしているのだ。 「山吹っ、俺は……ッ」 「はっ、はぁッ。……よく、分かりましたよね、課長……っ?」  こんな自分では、桃枝を幸せにできない。再認識すると共に、ようやく山吹は自覚した。 「ボクと課長じゃ、立っている場所が違うんです。見ているものも、目指しているところも違うんです。……不釣り合いなんですよ、ボクたちは」  大切な人には、幸せになってもらいたい。山吹は桃枝に、幸せになってもらいたいのだ。  山吹にとって、桃枝がどれだけ大きな存在なのか。そう自覚をすると共に、山吹はどうしようもないほどの喪失感を手に入れてしまった。 「そんなこと、言うなよ……ッ。俺はッ、お前じゃない奴との未来なんて考えたくねぇ……ッ!」  不意に、山吹の首に桃枝の唇が寄せられる。そのまま桃枝は、山吹の首筋を強く吸った。  まさかあの桃枝が、キスマークを付けるなんて。襟で隠せるかどうかなんてお構いなしに、欲望のまま……。  胸が、詰まる。嬉しくて嬉しくて、どうにかなりそうで。 「んっ。痛いの、気持ちいいです、っ。課長、ありがとうございます……っ」  抱き着きたい。抱き締められたいし、愛を囁いてほしい。  だけど、それは強請れない。山吹は今しがた、桃枝を酷く傷つけたのだ。  それなのに、自分だけ──。……そこまで考えて、山吹は鼻の奥がツンとしたような錯覚をする。  ──これではまるで、優しくされることを……。考えてはいけない議題に、直面しかけたのだから。  きっと、桃枝は知らない。山吹が、なにを考えたのかなんて。  それなのに桃枝は、山吹が欲しがったものを同時期に『与えたい』と思ったのだろう。 「好きだ、山吹。お前が、好きなんだよ。頼むから……頼むから、お前を大事にさせてくれ……ッ」  抱き締められて、愛を囁かれて。 「課長……っ」  思わず、桃枝の背に腕を回しそうになった自分が、許せない。 「ごめんなさい、課長。ボク、今日はもう帰ります」 「っ! 待て、山吹──」 「お洋服は、来週お返しします。だから……すみません、失礼します」  それ以上山吹は、桃枝になにも告げられなかった。着ていたスーツと荷物を手に、山吹はマンションから飛び出したのだ。  ……まるで、逃げるように。山吹は走って、自分が暮らすアパートへと向かった。 6章【虎から逃げて、鰐に会う】 了

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