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 ベッドの上で『明日が来ませんように』と祈ったところで、時間というものは無情にも過ぎる。  始業時間ギリギリに出社したり、パソコンの画面からなるべく視線を外さないようにしたり、と。露骨なほど、山吹は桃枝を避けようとした。  しかし、山吹は桃枝に声をかけなくてはいけない。桃枝の服を借りてしまったからだ。  せめて『昼休憩時間にならないでくれ』と願ってはみるものの、効果があるはずもない。事務所内には時計が鳴らす無機質で無情な音が響き、職員たちに昼休憩を伝えた。  すぐに、管理課の事務所には桃枝と山吹の二人だけとなる。いっそのこと山吹も事務所の外へ逃げてしまおうかとも考えるが、それでは問題を先延ばしにしているだけだ。  昼休憩が始まって、数分。山吹は必要もないのにパソコンを眺め続け、モゾモゾと身をよじって、そして……。 「……っ。……あっ、あのっ、課長っ」  ようやく、勇気をかき集めた。  家にあった紙袋に桃枝の服を詰めた山吹は、すぐにその紙袋を持って桃枝がいるデスクに近付く。 「これ、お借りしていたお洋服です。勝手に着ていってしまって、すみませんでした」  顔が、見られない。山吹はペコリと頭を下げて、桃枝に献上するかのような姿勢で紙袋を渡した。  今日の桃枝は、いったいどんな顔をしているのだろう。今の桃枝は、どんな目で山吹を見ているのだろうか。どれひとつとして、山吹には確認をする勇気はなかったが。  どんな言葉が、返ってくるのだろう。必死に体を奮い立たせ、せめて震えないようにと集中する。  すると、紙袋が桃枝の手によって受け取られた後……。 「まさか、わざわざ洗濯したのか? 悪かったな、気を遣わせて」  まるで、金曜日の出来事が夢だったかのように。普段の桃枝となにも変わらない声が、返された。 「いえ、そんなことは。勝手に、借りてしまったので……」  普段と違うのは、自分だけだ。俯き、目も見られず、ただただ委縮して立っている。  あれだけ人との関わり方を教えたくせに、なんて態度だろう。山吹は桃枝の顔を見られないまま、膨らませようのない返事をする。  すると……。 「悪かったな、山吹」  まさかの、謝罪だ。山吹はビクリと体を震わせて、桃枝の言葉に怯える。  まだ、桃枝の顔が見られない。山吹は俯いたまま、口を開く。 「っ。……なにが、ですか?」 「首に、変な痕を付けたことだ」  きっと桃枝も、首を絞めた事実には二度と触れたくないのだろう。それでも桃枝は、遠慮することなく付けたキスマークに対して謝った。 「それと、なんだ。……水蓮のことも、悪かった。アイツのせい、だろ。お前があの日、おかしくなったのは」 「そ、れは」 「いつかまたアイツがおかしなことを言い出したら、どうにかして話題を変える。だから、俺を見限らないでくれると……その、助かる」 「……えっ?」  てっきり、責められると。最悪の場合として、桃枝からの別れ話まで想定していたのに。  それなのに、桃枝が口にしたのは全く別の言葉。 「確かに、俺はお前との約束をあまり守れていないな。それなのに、こんな希望を口にして……本当に、悪い。すまない、山吹」  まさか、まさか。……まさか桃枝は、まだ、山吹のことを? 「そん、な、こと……っ」  確かに、山吹は桃枝を『嘘吐き』と糾弾した。桃枝の理性を剥奪しようとした八つ当たりだとしても、口にしたのは事実だ。  それを桃枝は、とても反省しているらしい。山吹に『嘘吐き』と言わせてしまった己を、責めている。  どうして、なんで。子供のような言葉ばかりが喉から出てきたがっている実状に、山吹は閉口するしかなかった。

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